世界的世界における技術

アンドリュー・フィーンバーグ/畠中和紀訳

 

I

明治時代のおわりに三井家によって、デパートが日本にはじめて誕生した。店は三越と名づけられた。三越は成功をおさめ、手本にした西洋のデパートと肩を並べるほどの規模になった(1)

しかしながら、日本のデパートはある一点において、そのモデルである西洋のデパートとはっきり違っていた。三越のフロアには畳が敷いてあったのである。このことから独特の問題が発生した。日本人の消費者は、行きつけの昔ながらの小さな店に入るのに靴を脱ぐことはあまりなかった。店の入り口からつづいて土間があり、消費者はそこを歩いて帳場に向かう。帳場のむこう側には畳が敷かれており、そのうえで売り手が商品を売り込んでいたのである。こんにちでも、こうした店をみかけることがある。三越の畳敷きも靴にはふさわしくなかったが、客は買い物をするには店に入らなければならない。そして実際、客は店に入った。その数は、ときには一日に何千人にもなった。

入り口には預かり所があり、客の靴を預かっては、店内の傷みやすい畳敷きのうえを歩いてもらうためにスリッパを渡した。しかし、客の数が増えるにしたがって、このやりかたには大きな負荷がかかるようになる。とうとうある日、五百足もの靴が置きまちがえられるという事故がおきた。この事故について、東京の歴史にも詳しいエドワード・サイデンステッカーはこう推測している。震災後に板敷きのフロアが導入されるまで西洋式の商品販売形態はなかなか広まらなかったが、それにはこの事故が大きく影響しているのではないか、と。

この物語は、技術について今なら知っていてしかるべきことを、私たちに伝えている。技術は単に目的のための手段、中立的な道具にすぎないのではなく、文化・イデオロギー・政治を反映しているということである。さきのケースでは、二つのまったく違う国に固有のフロア技術が、一見したところ無関係に思える買い物習慣の変化につれて対立することになった。板敷きと畳敷きとを比べて、技術の観点から優劣をつけることはできない。むしろ、両者はそれぞれに、社会生活のあらゆる領域――もちろん買い物もそこにふくまれる――における「内」と「外」の了解と密接にかかわっているのである。三越のケースで明らかになったのは、結局のところ、西洋式の商品販売形態には西洋式のフロアが必要だということにほかならない。

この二つのフロア技術の対立は、日本のほとんどの公共空間で西洋式が採用されるかたちで――伝統的な料理屋・旅館・お寺といった例外はあり、そこに入るときには今でも靴を脱ぐのだが――ずっと以前に解決されている。それにもかかわらず、畳は今も日本人にとって象徴的な意味を強く保っており、多くの家には「和室」と「洋室」の両方がある。この二重性は、日本の文化的折衷主義を象徴するものとされることになる。西洋の文物がますます流入してくるなかで、伝統的な日本の技術・美術工芸・習慣を保存すること。日本の文化的折衷主義においては、およそこうした考え方がグローバル化とよばれるのである。はじめは、日本の樹に西洋の枝が接ぎ木されたようにみえた。しかし、こんにちでは、次のように問われてもおかしくないほどになっている。西洋から輸入された樹にかろうじて生き残っているのが日本の枝なのではないか、と。

この話は、国に固有の枝分かれbranching発達という考え方を具体的に示している。枝分かれは、社会的発達や文化的発達にみられる一般的な特性である。考え方やデザインや習慣は、原始的な社会のなかにまでも容易に広まっていく。しかし、それらは伝わっていくさいに、じつにさまざまな仕方で受け入れられるのである。技術的な発達が因果的な論理にある程度支配されているとはいえ、技術の領域においてもデザインははっきりと規定されているわけではない。いかなる発達方向においても、その開始時にはいろいろな可能性がさぐられる。デザインはそれぞれに、異なる行為者集団の関心や見とおしに対応しているのである。デザイン間の違いが非常に大きく、競合する複数のデザインが長期にわたって共存することもある。しかしながら現代においては、市場・政治的規制・共同的支配といったものが、どのデザインを選ぶべきかを決定する。ひとたび決定がくだされれば、勝利をおさめた枝はブラックボックスに入れられ、議論や疑問をまぬがれることになるのである。

国特有のデザインの枝どうしの関係は、かなり最近になるまで、まさにこの最後の段階にいたることはなかった。交通や輸送が貧弱だったせいで、国特有の枝は互いによく知ることもなく、いずれかのデザインが決定的な勝利をおさめる可能性もなく、何百年どころか何千年にもわたって共存してこられたのである。グローバル化とは国特有の枝どうしの相互作用がはげしくなる過程であり、それはやがて三越の物語にみられるような対立と決定へとつうずるのである。

しかしながら、世界のグローバル化がもたらす帰結は、対立と決定だけではない。次に述べる二つ目の物語は、私が「積み重ね」発達とよんでいる別のパターンを具体的に示している(2)

日本が開国してまもなく、薩摩藩はウィリアム・フェントンというイギリスの楽隊長をやとって、日本最初の軍楽隊を訓練させた。フェントンは日本に国歌がないことに気づき、その作成に着手した。彼は、今も日本国歌の歌詞として歌われている詩を選定し、それに曲をつけた。この非公式の国歌は1870年にお目見えしたが、とても歌いにくいものだったため、すぐに使われなくなった。

国歌は、海軍においてとりわけ必要にせまられていた。日本の将校は、洋上での将旗掲揚式のさいに歌う国歌がなくて困っていたのである。そこで海軍は、海軍軍楽隊に日本の伝統音楽を教えるために、皇室つきの音楽家を招くことにした。隊の演奏者のだれかが国歌を作曲できるようになることを期待していたのである。しかし、その歩みは遅々として進まず、海軍はとうとう皇室音楽家たち自身にしかるべき曲を提供してくれるよう依頼した。結果はふたたび失敗だった。彼らが作ってきたのは、伝統楽器のアンサンブルで演奏するためにアレンジされた伝統的な様式の曲だった。軍艦の特別室のなかでさあ聴こうと期待するような曲とはかけ離れたものだったのである。

およそこのころ、フランツ・エッカートというドイツの楽隊長が、フェントンの後任になっていた。エッカート氏はこの難局を切り抜けた。彼は皇室から提供された国歌を、演奏しやすいように適切に変更しながら、西洋式のバンド用にアレンジした。1880年に、日本はついに今の国歌を獲得したのである。

この物語は、三越の物語とはまったく違っている。フロア技術と同じように、音楽も日本と西洋とでべつべつの枝にそって発達してきた。しかしながら、日本の国歌は日本式でもなければ西洋式でもなく、両方の伝統を引いているのである。この国歌のケースでは、二つの伝統の関係は非常に込み入っている。国歌という発想それ自体は西洋のものである。

国歌というものは自己肯定であり、その意味で他者の存在をふくんでいる。その他者の前で、国家としての自己が肯定されるのである。しかし、自分だけの世界に閉じこもっていた250年の長きにわたって、日本には他者がいなかった。開国にともなって自己肯定が問題となり、国歌が必要になったのである。しかし、国歌が日本の音楽様式を反映していないとしたら、その国歌によって日本が肯定されることはありえない。したがって、曲想は日本的でなければならない。こういうのは簡単だが、実際にそうするのは難しい。というのも、国歌は西洋式の式典にさいして、西洋式の楽器によって演奏されるものだったのだから。それゆえに、最終段階では、もともとの日本的曲想の層にさらに西洋式の層をかぶせることになったのである。

ここには、さまざまな様式が並立する余地はなく、真の総合があるだけである。伝統の融合は積み重ねlayeringの過程でおこる。この過程は、社会的・文化的・技術的な発達の多くのタイプにみられる特徴でもある。しばしば、単一の基本デザインのうえにさまざまな関係者の要求を積み重ねていくことで、いくつかの枝が結合されることがある。その過程で、はじめは対立すると思われていた考え方がじつは調和しうることが、あとになってわかってくる。日本的に響く国歌がブラスバンドによって演奏されたことを思い出そう。それと同じように、日本固有の技術や視点と西洋のそれとを総合することによって、近代日本の政治・文学・絵画・建築・哲学が明治時代に生まれたのである。

ところで、積み重ねは政治的な妥協をモデルとして考えられてはならない。たしかに積み重ねは、はじめは異なる立場にあった、それどころか敵対する立場にあったグループどうしを同盟で結ぶのではあるが。政治的な妥協にはトレードオフがつきものであり、それぞれの当事者はなにかを獲得するためになにかを放棄する。しかし、技術の発達においては作曲の場合と同様に、それどころかなんらかの技術的な基礎にもとづいて創造的活動がおこなわれるすべてのケースと同様に、同盟はかならずしもトレードオフを要請するわけではない。理想的にいえば、優れた技術革新は障害を回避してさまざまな機能を結びつける。したがって、積み重ねによってえられた産物はあらゆる点でよりよくなっており、あれもこれもと手を広げるあまり効率を犠牲にしたりすることはないのである。これが、フランスの技術哲学者ジルベール・シモンドンが「具体化」とよぶものにほかならない。この積み重ね過程こそが、多くの国に固有の成果を世界的発明という単一の資源へと結合することによって、グローバルな技術を生みだすのである。

 

II

枝分かれと積み重ねは、二つの基本的な発達パターンである。グローバル化が進むにつれて、この両者の関係も変化する。この過程の異なる段階に対応して二つのデザイン様式があることを、私は別のところで指摘したことがある。私が「風土中心型デザインmediation centered design」とよぶものは、その初期段階を特徴づけている(3)。それぞれの国が他の国から比較的独立に自国の技術を発達させている段階である。もちろんそこでも、考え方は国境を越えて伝わっていく。しかし、国に特有の伝統が圧倒的に大きいため、それが装置に組み込まれるにさいしては国ごとの背景に応じて違う形をとることになる。こうした違いは、国に固有の倫理的あるいは美的風土に多くをおっている。そして、デザインを形づくるのもこの風土である。したがって、それぞれのデザインは、その発達の舞台となる国家背景を「表現」しているのである。

グローバル化は、これとはまったく異なるパターンをもたらす。私が「システム中心型デザインsystem centered design」とよぶものである(4)。経済のグローバル化は、国際的な資本財市場を中心として進展していく。各国はそこで、自国の求める技術を構築するために必要な素材を手にいれる。この市場で売られているのは、歯車・車軸・電線・コンピュータチップといった部品である。これらの部品は、さまざまなパターンにしたがって組み立てることができる(5)

資本財市場はきわめて巨大な物資供給源であり、ひとたび国家間の交渉が活発化するや、だれもがこの市場を利用しようとすることになる。しかし、デザインが既製部品の組み立てにもとづくことになれば、それが国ごとの文化の違いに適応するのは簡単ではなくなる。製品は文化的文脈を表現しなくなり、資本財市場で流通する部品や装置という先行システムにぴったりとフィットするようにデザインされることになるのである。もちろん、ここでもなお国の文化への適応はみられる。しかし、それと並行して、国境線なきシステム化の命令が発せられるのである。その反面で、資本財市場そのものにおける技術革新に寄与するかたちで、国の文化は間接的に表現される。グローバル化がもたらすこの二つの帰結を、以下で詳しくみていくことにしよう。

システム中心型デザインへの移行は、価値評価をふくむ風土が近代のグローバル化した技術の構造のなかで果たす役割にとって、さまざまな意味をもっている。伝統的な技術は総じて互いによくフィットする。日本の畳敷き・伝統建築・寝食の習慣・履き物、こうしたものすべては一つのまとまりをなしている。ひとまとまりのものとして、生活様式についてのある明確な選択を、つまり日本の文化に根ざした価値評価の枠組みを表現しているのである。しかしながら、純粋に技術的な観点からいえば、そこにふくまれる人工物どうしのつながりは比較的ゆるやかなものである。たしかに、家には履き物を脱ぐために玄関が必要だし、布団は畳のうえに敷かれるものである。しかし、これらの人工物どうしは、それ以外には考えられないほど強く結びついているわけではない。選択の余地は広く、それゆえに、文化的風土が技術的デザインの中に簡単に入り込んでくるのである。それどころか、伝統工芸においては、文化的制約と技術的制約とをはっきり区別できないほどである。物を作るには「正しいやり方」があり、それは両方の制約に従っているのである。

技術のグローバル化によって、すべては一変する。システムを基盤とすることになれば、デザインは技術的要素を密接に連結したシステムにフィットしなければならなくなる。電線やソケットを電気製品と関係なくデザインすることはできない。車輪・歯車・滑車といったものは、はじめに決定されたサイズと型に合わせて作られなければならない。これらの部品を使って作られる装置は、この決定の結果に沿うものでなければならないのである。

したがって、システム中心型デザインは、デザイン過程の初期段階で多くのことを強制することになる。それは、世界システムの中核に位置する国々に由来するものである。こうした強制は、グローバル化のプロセスのなかにいる周辺国に、その国の文化などお構いなく押しつけられる。そのうえ、あるタイプの資本財が流通することそれ自体が、後発の受け手国ではなく、中核的な国々の技術的な進化と優越をあらわしているのである。こうして、グローバル化は結果的に、文化的制約を完全に消し去りはしないまでも、脇に押しやることになる。そうして生まれた製品は、一見したところ文化的に「中立」であるかのようにみえる。しかし、製品は実際には文化を引き受けて具現しており、製品が周辺諸国にまで広く行きわたれば、そのことははっきりと見てとられるのである。

わかりやすい例として、コンピュータをあげよう。私たち西洋人にとっては、キーボードは技術的に中立であるようにみえる。しかし、もしもコンピュータがまず日本で、あるいは表意文字言語をもつどこかほかの国で発明され発達してきたとすると、キーボードがこれほど長くにわたって入力装置として選ばれているということはまずないだろう。ファックス機がはじめに日本で広まったように、おそらくコンピュータも早晩、なんらかの画像もしくは音声によって入力するようデザインされていただろう。西洋式のコンピュータが日本にやってきたのは、西洋との疎ましい出会いであり、日本語に対する挑戦であった。キーボードで日本語を扱えるようにするには、きわめて巧妙な工夫を凝らす必要があったのである。

こうしたことをみると、グローバル化する技術システムに対して国特有の文化がいかに弱いものかがわかる。しかしながら、この話にはもう一つの側面がある。中核から遠く離れた国々は、日本がつい最近までそうだったのだが、中核的な国々ほどではないにしても、たしかになにほどかは貢献するところがある。そして、こうした貢献はその国の文化的背景によって特徴づけられることになろう。日本についていえば、こうした貢献は非常に大きくなっており、もともとの中核的な国々にとって重要な要因となるほどである。グローバルな技術は日本の層をふくんでおり、その意味で、単に中核−周辺という依存関係にとどまらない真のグローバル化のパターンを示しているのである。

国特有の文化から資本財市場へ向かうこの種のフィードバックの例をあげるのは難しい。文化的志向は、技術的観点からすると、ちょうど他の技術的な人工物と同じように見えてしまうからである。それでもなお、文化の解釈学によって、技術の領域における文化の足跡をたどることができるはずである。

ひょっとしたら、日本文化を反映する特別な貢献として、小型化をあげることができるかもしれない。少なくとも、李御寧はそう論じている。彼は、その著書『「縮み」志向の日本人』(1984年)で、日本の超小型電子技術の勝利が古くからの文化的志向に根ざしていることを指摘するのである。盆栽や俳句をはじめ、日本文化のさまざまな面に明らかに見てとられる小型化への志向は、技術的な人工物のなかにもあらわれている。李があげているのは、扇子という初期の事例である。中国で発明された団扇は、かなり古い時代に日本にもたらされた。そして、中世の日本で扇子が発明されたとされるが、それはそののち中国へ輸出されることになる。これがおなじみのパターンの始まりである。トランジスタラジオやビデオ録画機の基礎技術は、いずれもアメリカから輸入されたものである。しかし、商業的に成功をおさめるには装置の小型化が不可欠だったが、それは日本でおこなわれ、アメリカへと逆に輸出されているのである。

もちろん、小型化された部品がひとたび資本財市場に行きわたれば、世界中のあらゆる国が小さな製品を作れるようになる。そのさい、文化の影響を考えなおしたりする必要はない。しかし、李のいうことが正しいとすれば、この傾向はある特定の国の文化のうちに起源をもっている。ある意味では、製品の技術仕様書をつうじて、その文化のさまざまな側面が世界中に広まったのである。

 

III

本稿の前半では、技術のグローバル化についてのテーゼを日本にかんする話とからめて説明してきた。残りの部分では、グローバル化を理解するうえで日本の哲学がはたした重要な貢献――西田が戦前に展開した世界的世界の理論――に対してこのテーゼがどのようにかかわるのかを論じていきたい。

西田の議論の背景には、20世紀はじめに拡大の一途をたどっていた日本の自己主張があった。多くの日本人にとって、それはまずもって国家の拡張という問題にほかならない。しかし、西田のような知識人にとっては掛け金はずっと高く、世界における文化的主導権が問題だったのである。日本の経済的・軍事的台頭はこの二つの側面をもつが、両者は結びついてこそいるものの、同じものではない。一方で、日本は近隣諸国を征服できるほどに強大になっていた。他方で、まさにこの事実が示すように、西洋文化の成果を吸収してみずからの目的に組み込むことで、アジアの一国である日本は十分に文化的近代に加わることができた。西田はこうしたことにもとづいて、アジアは最終的に西洋と文化的に対等な立場、それどころか優った立場として近代世界に場を占めることができると論じたのである(Nishida, 1991: 20)。

西田の立場と日本の帝国主義とのつながりはこのように込み入っており、物議をかもしてもきた。私はすでにいくつかの論文(Feenberg, 1995b; Feenberg, 1999)でその論争にかかわっており、本論の結論部でも手みじかにこの論点にふれたいと思う。しかしながら、私の目下の関心は別のところにある。さきに説明した技術のグローバル化の構造と西田の「世界的世界global world」という考え方とのあいだにみられる並行関係が、それである(6)

西田によれば、近代以前の世界は彼のいう「横の」構造をもっていた。つまり、世界は地球上に横に並んだ国々によって構成されており、地球上で国々は統合されることなく分離していた。「世界」という概念は、近代以前の長い期間にわたって「抽象的」であらざるをえなかったのである。西田がそういうのは、「世界」は単なる概念にすぎず、それぞれの国の生活にかかわるような力をもっていなかったという意味である。日本の場合は、こうした状態がとりわけ長くつづいた。日本は1860年代まで、世界規模の通商や交通の発達から関係を絶っていたからである。

国際通商は、あらゆる国々をはげしい相互接触に引きこむことによって、この横の世界を変貌させた。その結果、西田のいう「縦の」世界が出現したのである。国々が覇権を求めてせめぎ合う世界である。今やすべての国が、戦争・貿易・人や思想の移動というかたちで、隣国はもとよりかなり離れた国々の生活にまで能動的にかかわることになる。しかし、ここにあるのは調和のとれた融合ではなく、アイデンティティーの硬化であって、それは究極的には戦争へとつながっていく。こうした情況のなかで、外国による支配の脅威から身を守るための緊急的対応として、ナショナリズムがあらわれてくるのである。

西田は、この移行をあらわすのにいくつかの術語を使っている。それらは現代の私たちにはいくらか奇妙に聞こえるが、しかし、突きつめてみれば示唆に富むものである。西田のアプローチを理解する最良の方法は、おそらくは、複数の概念枠組みの弁証法であろう。個々の枠組みはそれだけでは社会的現実を記述するには不十分であるが、相互に修正しあうカテゴリーの体系にとりまとめることによって、社会的現実の記述が可能になる。したがって、西田の議論が入りくんでいるのは、グローバルな社会性を考えることにつきまとう難しさに相即するものと考えられるのである。

西田は、横の世界と縦の世界との対比を、時間空間における「多」の「一」に対する関係という観点からさらに展開する。空間中に散在する多くの国々は、近代的世界のなかで相互に作用しあうようになる。歴史における相互作用というものは、外的にのみ関係する事物どうしが機械的に接触するということにとどまらない。それぞれの国が、自国の文化がになう意味を実現するというかたちで、世界のうちでみずからを「表現」するのである。この自己表現は、各国がみずからの観点をほかのすべての国々に押しつけようとするなら、対立を引き起こすことにもなる。しかし、相互に作用しあうためには共通なものも必要である。二つのものがまったく異質であれば、そこに相互作用が生じる余地はないからである。近代史の各段階において、諸国を統一する「世界」としてみずから任じる支配的な国が、共通の枠組みをほかのすべての国々にあてがってきた。統一は、個別の国どうしの争いに対して一般的な形式を押しつけるという面をもつのである。西田は、19世紀に英国がおこなった世界市場の押しつけを例にあげている(Nishida, 1991: 24)。多くの対立する国々は、こうしてより深いレヴェルで一つの世界へと結ばれることになる。

多から一への経過は、空間と時間との関係のなかにもあらわれている。国々が空間中に散在していること、つまり国々の「多性」は、国々が一つの統一的な時間次元のなかに共存しているという同時性と相補的な関係にある。国家間の争いはこの時間的統一につうじているのである。この意味で、近代において地理学は歴史に従属する。統一する役割をになう国家はこの世界における時間に相当し、それゆえに、みずからが押しつける統一の過程のなかに消えていくことになる。英国についていえば、みずからが創りだした世界市場に吸収され、世界経済の営みの舞台となっている。英国という国の個別性は、みずからが創設し代表する普遍的秩序によって乗り越えられるのである。

西田が模索するもう一つの術語対をなすのは、「機械的」と「有機的」である。機械的世界は、空間中に散在する外的にのみ関係する事物からなる。機械的に関係する事物は個物とよばれるにふさわしい。個物が多数集まって「個物的多」を形成するのである(Nishida, 1991: 29-31)。有機的世界をなすのは、時間のなかで一つの目的(・・)へと向かう全体である。この意味で、全体は行為の主体、「全体的一」なのである(Nishida, 1991: 37-38)。社会を機械的なものと考えるのはふさわしくない。というのも、社会は一つの全体を形づくるからである。だからといって、社会は有機的でもない。社会の構成員は完全に自立した個人であり、畜群ではないからである。機械的なものとも有機的なものとも決められないという点に、社会的世界の独自性が見てとられる。この二つの概念の一方だけによって社会的世界をあらわすことができないのは、それが両方を包み込んでいるからなのである。

この「自己矛盾的」な世界化した世界を概念化する最後のこころみとして、西田は「場所」の概念を導入する。西田の術語としての場所は、相互に作用しあう行為者がそこに「於て」出会う「第三の」エレメントもしくは媒介である。行為者どうしがなにも共有していなかったとしたら、両者が出会うことも相互に作用しあうこともありえない。では、なにが行為者どうしを結びつけているのだろうか。他から切り離されているものは、行為者と相互作用するためにそれ自体として場所を必要とする。したがって、場所は相互作用の外にあるものではなく、相互作用そのものの構造をなしている。この構造は、それぞれの行為者が「自己を否定」して他の行為者に対して「世界」となるとき、つまりは相互作用の場所となるときにあらわれてくるのである(Nishida, 1991: 30; Nishida, 1965c: 291-292, 294)。

このあいまいな定式化を解釈するのは容易なことではない。それが意味しているのは、行為において自己は他者に対する客体となるということであると思われる。つまり、自己は他者によって出会われるものにほかならないということである。しかし、自己は単に客体にすぎないわけではない。むしろ自己は環境なのであり、他者は主体としてみずからを主張しながらこの環境に反応する。他者は反応するさいにみずからをあらたに規定しなおすのであるから、他者のアイデンティティーは自己の行為に依存することになる。しかし、こうして自己が他者を規定するということは循環の半分にすぎない。というのも、他者の行為は自己に対して同等の影響をあたえるからである。相互作用とは、こうした役割の果てしなき交替、他の自己との接触によってうながされる自覚の循環過程なのである(たとえば、Nishida, 1970: 78-79, 134-135; Ohashi, 1997をみよ)。

西田は、近代世界における場所の役割について、二とおりの仕方で語っている。ある時は、世界化をすすめる国が世界の他の国に対して相互作用の「場所」として、相互作用の舞台としてふるまうかのようにいう。この場所は、支配によって押しつけられることもあれば、卓越した文化としてすすんで認められることもある。西田はこの点に、過去における英国と未来における日本との差異を指摘しようとしているのである(Nishida, 1991: 99, 77; Nishida, 1965c: 373, 349)。しかし、またある時は、近代とは国と国が出会うための世界的な場所が世界文化というかたちで出現した時代であると主張してもいる(Nishida, 1965a: 428; Arisaka, 1996: 101-102)。西田はこの二つの論述のあいだにある矛盾をみていない。というのも、彼は日本文化は「空」のようなものであり、あらゆる文化を受け入れることができると主張しているのだから。しかし、あとでみるように、この両義性はきわめて重要なものとなる。

西田はこの分析にもとづいて、あらゆる近代文化が重要性をもつと主張する。西洋の支配は単に一時的な局面にすぎず、アジアの自己主張の時代に道をゆずろうとしている。人類の運命は、西洋文化と東洋文化とを「矛盾的自己同一」において豊かに結合することなのである。「矛盾的自己同一」というこの概念は、(国家的)個別性と(世界的)全体性との総合を意味している。世界文化はこの総合のうちに出現しつつあるとされるのである。

ある意味では、世界的世界は内的な動力によって変化するただ一つの存在である。したがって、世界は「自己を限定する」。しかし、個々の国家のアイデンティティーがこの統一体のうちで失われることにはならない。世界文化があらわれて、諸国の文化にとって代わるわけではないのである。ここにはもっと微妙な事態がふくまれている。西田はこう書いている。「種々なる文化が各自の立場を守りながら、世界を媒介として自己自身を発展することによつて真の世界的文化が形成せられていくのである」(1970: 254 [452-453])。世界文化は純粋な形式、相互作用の「場所」あるいは領野であり、現存する国特有の文化を排除してそれに代わるものではない。国特有の文化は消え去ることなく、たえず変化と進歩の源泉でありつづけるのである。したがって、自己限定の過程は内的に創造的であるという意味において自由である。それは、外的な力や超時間的な法則によって限定されたりはしない。世界の「外部」にあって世界に影響をあたえたり世界を制御したりできるようなものなど、なにもないのである。自然科学の法則でさえ、特定の歴史的条件のもとにある思考行為として、世界の内部に位置づけられなければならないのである(Nishida, 1991: 36)。

ここで、西田が世界的世界を思うがままに描いた一節を引こう。

 

「いづれの国家民族も、それぞれの歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、そこに各国家民族が各自の歴史的生命を有するのである。各国家民族が自己に即しながら自己を越えて一つの世界的世界を構成すると云ふことは、各自自己を越えて、それぞれ(・・・・)()地域(・・)伝統(・・)()()つて(・・)、先づ一つの特殊的世界を構成することでなければならない。而して斯く歴史的地盤から構成せられた特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。かゝる世界的世界に於ては、各国家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合するのである。」(Nishida, 1965a: 428; Arisaka, 1996: 101-102

 

しかしながら、この世界主義的な議論は奇妙なことに、日本が世界的文化という統一傾向の中心に位置するという主張にきわまっていく。英国は功利主義的な個人主義の精神にのっとって、世界市場によって世界を統一し、果てしない競争と闘争をもたらした。同じように、日本は独特の協調的な精神文化のまわりに世界を統一し、平和の時代をもたらすだろう。日本は、世界が西洋の限界を越えて真に世界的になるための「場所」となるだろう。日本独特の文化は世界的世界の実際の構造に合致しており、それゆえに、日本は世界を精神的に主導することができるのである。

 

「我々は我々の歴史的発展の底に、矛盾的自己同一的世界そのものの自己形成の原理を見出すことによつて、世界に貢献せなければならない。それが皇道の発揮と云ふことであり、八紘一宇の真の意義でなければならない。」(Nishida, 1991: 70 [1965c: 341]

 

この結論のあいまいさは、なんとも気にかかる。西田ははっきりと帝国主義を批判しており、他の国との対立において「主体」として行為するならば、日本は世界統一の場所とはなりえないと論じている。むしろ、日本は「自己を否定」することによって、他のすべての国に対して「世界」とならねばならないのである(Nishida, 1991: 70, 77)。しかしながら、西田はまた世界対立が宿命的に不可避であることに気づいており、その情況において日本が果たすべき役割を引き受けているようにもみえる。そのことは、天皇への御進講のなかの次の言明に見てとられる。「種々ナル民族ガ世界史的関係ニ入ル時、今日ノ如ク国家間ニ烈シイ闘争ノ起ルノハ自然ノ勢ト存ジマスガ、ソノ中最モ世界史的傾向ヲ有スルモノガ中心トナツテ時代ガ安定スルノデアラウト考ヘマス」(Nishida, 1965b, 270-271)。そして、さきに見たように、西田はためらうことなく国粋主義のスローガンを採用するのである。そのスローガンにあらたな意味を吹き込むことができるという希望をいだいているかのように。控えめにみても、次のようにいうことはできよう。西田の努力は素朴であって、彼自身の哲学的前提と根本的に対立する帝国主義的なシステムを皮肉なかたちで援助することになってしまったのである。

しかしながら、ナチズムとハイデガーの思想――彼の行動はともかく――とのつながりの深さが重大な問題となりうるように、西田のナショナリズムをめぐって同じ疑惑が浮かんでくる。西田の日本についての主張と世界的統一という考え方とのあいだには、明確な論理的つながりはない。英国人は少なくとも世界に世界市場をあたえ、それを中心に世界を統一しようとした。それに対して、日本はなにを提案すべきなのか。日本は、みずからをあらたな時代の中心たらしめる、いかなる風土を提供するのか。

私の知るかぎり、西田がこの問いに頭を悩ませることはなかった。悩ませるべきであったにもかかわらず、である。西田の主張によれば、日本は東洋文化と西洋文化とを融合させる能力をもっており、それゆえに世界的統一の原型(・・)である。たしかにそれは賞賛すべきことではある。しかし、だからといってどうして日本が世界的統一の場所(・・)とされるのか、明らかではないのである。世界的統一の場所となるために、日本は世界の舞台で単にモデルとして存在するだけではなく、もっと積極的ななにかをなすべきであると考えられよう。

たしかに、西田は西洋の帝国主義からアジアが開放されたことの世界史的な意義を謳っている。しかしながら、アジアの開放は、統一力としてはたらく世界市場にはけっして相当しない。この問いに対する答えは最後まであたえられないのである(7)

 

IV

しかし、西田が提示した世界化の理論について、こうした問題点を指摘して終わりにしようとは思わない。ナショナリズム的な不要物を取り除いてみれば、理論の構造はほんとうに興味深いものなのである。西田の基本的な主張は、世界的統一という対立的ではあるが創造的な過程のなかで、世界は横の構造から縦の構造へ、空間における無関心な共存から時間における相互関係へと移行してきたということである。今まさに姿をあらわしつつある統一は、国家間の差異を消し去るのではなく、発展の途上にある世界文化のなかに組み込むのである。こうした世界文化を定義するのに、出会いと対話の「場所」以上にふさわしいものはない。共通の基礎をなす枠組みが、対立のただ中にある国家どうしのコミュニケーションを可能にするのである。

この主張は、本稿の前半で提示した枝分かれ発達から積み重ね発達への推移についての分析と正確に並行している。空間的に分散した世界における技術のさまざまな枝は、最終的に近代のグローバルな世界のなかで出会うことになる。枝はそこで自己を主張しあい、対立を引き起こす。しかし、そこではまた、枝はそれぞれの国の伝統にもとづく考え方や発想を互いに知らせあいもする。そうして生まれるグローバルな技術は、西田の意味での「場所」を形づくる。つまり、国家どうしが出会い、さまざまな国特有の文化の独自性と差異とを消し去ることなく世界的文化が進展していくための舞台である。積み重ねの過程において、それぞれの文化は発明という単一の資源に寄与することで、同時に自己を表現しているのであった。積み重ねの過程は、この意味で、西田の世界文化という考え方に正確に対応しているのである。

西田は、あと一歩でこうしたつながりをつけるところまできていた。歴史的行為が技術的創造と解きがたくからみ合っていることを、西田は理解している。彼は、「文化と云ふものは、非技術的に成立するのではない」(Nishida, 1991: 61 [1965c: 332])といっているのである。人間の精神は環境と相互に作用しあい、その相互作用によって自己を形成していく。技術とは、こうした人間精神の表現にほかならない(Nishida, 1991: 57; Nishida, 1965c: 328)。「我々は・・・、技術的に物を作り、作ることによつて自己自身を作り行くのである」(Nishida, 1991: 33; Nishida, 1965c: 297)。こうした観察をふまえて、技術を社会的にとらえるこの考え方を20世紀の世界的な文化相互作用という彼の概念と関係づけることによって、私たちは一歩さきに歩みを進めることができるのである。西田はそうしなかったのだけれども。

西田自身、日本でこの過程が展開していくさまを目撃していた。急速な社会的・文化的・技術的な変化が、彼の周りで進行していた。彼はそれを歓迎し、それが真の日本精神を表現するための媒体になりうると信じた。世界的な相互作用の時代にも日本の枝を純粋なままに保とうとする国粋主義の主張を拒み、日本は世界の舞台に入って前へ進むべきだと主張したのである。西田はこの意味で、彼が生きた時代の理論家、つまり日本が生活のあらゆる領域において東洋的な様式と西洋的な様式とをうまく結合しているかにみえた時代の理論家なのである。西田はこうした出来事をはげしく生きた。ひょっとしたら、彼は三越で靴をなくしたかもしれない。西田は国歌を歌い、日本の政府・都市・学校・文化の諸派混合的な近代化に、同世代の人たちとともに目を奪われたに違いない。こうしたことが、西田の世界的世界という考え方と未来への確信との背景にあったのではないだろうか。私はそんな憶測をめぐらせている。世界的世界において国家政治の果たしうる役割が、グローバルな技術の力と比べていかに小さいか。そのことに西田が気づいてさえいれば!

 

謝辞

有坂陽子と上原麻有子は、西田の翻訳と解釈を親切に手伝ってくれた。感謝したい。二人は多くの誤解を正してくれた。なお誤解が残っているとすれば、それは私自身のものである。

 

(1) この物語についての詳細な記述は、Seidensticker (1983)にみられる。

(2) 以下の記述は、Malm (1971)からとられたものである。積み重ねについてはさらに、Feenberg (1995a)の第9章を参照せよ。

(3) 私はかつてはこれを「表現的デザインexpressive design」とよんでいた(Feenberg, 1995a: 225)。

(4) 私はかつてはこれを「システム適合型デザインsystem congruent design」とよんでいた(Feenberg, 1995a: 225)。

(5) 資本財市場についてはさらに、Rosenberg (1970)をみよ。Junichi Murata (2000)はローゼンバーグの分析が技術の哲学に対してもつ意味を展開している。

(6) 以下の説明は、おもにNishida (1991)にもとづいている。

(7) 西田の政治をめぐる論争の分析と、問題になっている主要なテクストの一つについては、Arisaka (1996)をみよ。さまざまな立場を知るには、Heisig and Maraldo (1994)を参照。

 

文献

Yoko Arisaka (1996). “The Nishida Enigma,” Monumenta Nipponica, Vol. 51, No. 1.

Andrew Feenberg (1995a). Alternative Modernity. University of California Press.

(1995b). “The Problem of Modernity in the Philosophy of Nishida,” in J. Heisig and J. Maraldo, eds., Rude Awakenings: Zen, the Kyoto School and the Question of Nationalism. Honolulu: University of Hawaii Press. French translation, (1997). “Le problème de la modernité dans la philosophie de Nishida,” Logique du lieu et œuvre humaine, A. Berque and P. Nys, eds., Brussels: Ousia.

(1999). “Experience and Culture: Nishida’s Path to the ‘Things Themselves’,” Philosophy East and West, vol. 49, no. 1, January. French translation, (1999). “Le Cheminement de Nishida vers les Choses Elles-Mêmes,” in A. Berque, ed., Logique du lieu et dépassement de la modernité, Ousia.

James Heisig and John Maraldo, eds. (1994). Rude Awakenings: Zen, the Kyoto School and the Question of Nationalism. Honolulu: University of Hawaii Press.

O-Young Lee (1984). Smaller is Better: Japan’s Mastery of the Miniature. Tokyo: Kodansha. [李御寧『「縮み」志向の日本人』、講談社文庫、1984年。]

William Malm (1971). “The Modern Music of Meiji Japan,” in Shively, D., ed., Tradition and Modernization in Japanese Culture. Princeton: Princeton University Press.

Junichi Murata (2000). “Creativity of TechnologyAn Origin of Modernity?” manuscript.

Kitaro Nishida (1965a). 「世界新秩序の原理」、『西田幾多郎全集 第十二巻』所収、岩波書店。

(1965b). 「歴史哲学ニツイテ」、『西田幾多郎全集 第十二巻』所収、岩波書店。

(1965c). 「日本文化の問題」、『西田幾多郎全集 第十二巻』所収、岩波書店。

(1970). Fundamental Problems of Philosophy. Trans., D. Dilworth. Tokyo: Sophia University Press. [「哲学の根本問題」、『西田幾多郎全集 第七巻』所収、岩波書店。]

(1991). La Culture Japonaise en Question. P. Lavelle, trans. Paris: Publications Orientalistes de France. [(1965c).]

Ryosuke Ohashi (1997). “The World as Group-Theoretical Structure,” unpublished.

Nathan Rosenberg (1970). “Economic Development and the Transfer of Technology: some Historical Perspectives,” in Technology and Culture 11.

Edward Seidensticker (1983). Low City, High City. New York: Knopf.

 

(訳者付記) 本稿はAndrew Feenberg, “Technology in a Global World”の翻訳である。訳出にあたっては、「25回フッセル・アーベント」(東北大学、200168日)においてフィーンバーグ氏が読みあげた原稿に準拠した。

 

Andrew Feenberg・サンディエゴ州立大学哲学部教授)

(はたなか かずのり・東北大学大学院文学研究科学生)