アンドリュー・フィーンバーグ Andrew Feenberg

『代替する<近代>』Alternative Modernity 中国語版への序文/翻訳・解説   森本文彦

『哲学・科学史論叢』第四号 2002 (東京大学教養学部 哲学・科学史部会)所収

 

[序文・翻訳]

近代性(モダニティ)は逆説的な概念である。一方で、それは近代科学・技術、民主的政治形態、都市化等のような人類に普遍的な成果と思われるものを意味する。そのため、近代性(モダニティ)は伝統に対立し、あらゆる場所で伝統をただ一つの技術システムの伝播に基礎をもつ合理的「技術文明」に置き換える。もしこれが正しければ、たった一つの近代性(モダニティ)があり、それがいま、人類の文化的な記憶を次第に消し去り地球を均質化していることになる。近代性(モダニティ)は、その普遍主義的な合理主義をヨーロッパ以外の世界に広める前に、当のヨーロッパの伝統文化をまず打ち倒した全世界的な現象である。私はこうした考えを近代性(モダニティ)の技術的な理解と呼びたい。この理解は、社会は技術的進歩によって形作られ、技術的進歩自体は自然についての知識の向上に依るとする、決定論的な技術の哲学を前提としている。

 

しかし、これがことの全てではない。近代性(モダニティ)が西洋的伝統とりわけアメリカ文化という特定の伝統を表現する、文化的なもう一つの意味が存在する。アインシュタインは近代的であるが、ミッキーマウスもそうである。近代性(モダニティ)という概念のこうした二側面はどのように関連しているのだろうか。近代化は本当に普遍的なものであるのか、それとも、単なる西洋化、アメリカ化にすぎず、それに対する民族文化の抵抗が相応しいとともに必要とされるある種の文化的帝国主義なのだろうか。

 

第二次大戦後アメリカ合衆国が世界の覇権を握ると、近代性(モダニティ)の技術的な意味が一般化した。植民地主義が崩壊するとともに、世界が必要としているのは、伝統的文化をアメリカをまねた技術的合理性に基づく近代文化にいち早く置き換えることであるように思われた。共産主義世界はこうした分析に抵抗したが、結局のところ、アメリカの主唱する近代性(モダニティ)を共産主義的とされるもので代用したにすぎなかった。根底においてこの立場も同様なものであり、技術決定論に裏付けられた合理主義的普遍主義であった。

 

 

ここ10年から20年ほどで情勢は変化し始めた。世界的な金融機関とほとんどの国の政府の専門組織や政策機構が近代性(モダニティ)を普遍的な企図として追求し続けている一方で、知識人は、近代性(モダニティ)を第二の定義の関連から普遍的合理性という見せかけをもつ特定の文化と次第に見なすようになり、さらに、より洗練された見解においては、西洋でわれわれが定義する合理性は文化的な偏向をもつものであって普遍的意義を欠いている、と主張するようになった。このような見地では、技術的近代性(モダニティ)は全体主義的な押し付けであり、円滑に機能する社会機構に統合されえないあらゆるものに対する拒絶であると非難される。こうしたことが、イスラムの新原理主義イデオロギーからポストモダンの差異の哲学に至る、普遍主義に対する様々な挑戦をもたらした。

 

しかし、これらの挑戦は、近代性(モダニティ)の現実的基礎である技術的発展といかなる係り合いももたない抽象的なレベルに留まっているが故に、実りなきものであることが明らかとなった。近代的世界から身を引くことはほとんど不可能であるから、ポストモダンの批評家と同様にイスラムの原理主義者も旧来の近代の神々に跪くことになってしまう。原理主義者は武器の市場において、ポストモダンの人々はエンジン始動のために車のキーを回す度に。ラディカルなイデオロギーも届きえないと思われるほど、われわれの生活様式は基本的なレベルで近代技術に根ざしているのである。こうしたイデオロギーに代って必要とされるのは、私がこれまで「技術の批判理論」と呼んできた、われわれの世界の基礎となってそれを形成する技術システムの実態に論及する批判である。純粋に否定的なだけの近代性(モダニティ)の批判が手付かずのままにしておくところに、技術の批判理論は探求されたことのない可能性を見出すことができる。このような理論によってのみ、まったく同時に、普遍的であるとともに個別的でもあり、理性であるとともに文化でもある近代性(モダニティ)の逆説的なあり方を、われわれは解明することができるのである。

 

代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』は、私がこうしたアプローチを展開しながら著わした3冊の本の2冊目にあたる。これら3冊の最初のものである『技術 クリティカル・セオリー』Critical Theory of Technology1991年に、そして、最も新しい『技術を問う』Questioning Technology 1999年に刊行された。これらの本を書くのに要した10年間には大きな変化があり、二つの特に劇的な変化が世紀の終りを画した。ソビエト連邦の崩壊とインターネットの興隆である。

 

 

私がこのシリーズの最初の本を準備していた1980年代末に、ソビエト連邦は次第に解体されていった。しかし、グラスノスチ(情報公開)が、根底的で建設的な展開、すなわちロシアにおける改革されたより民主的な社会主義をもたらすかもしれないと思われた。私はこの事態を、西洋資本主義のモデルが近代技術社会の唯一首尾一貫した組織形態であるとはかぎらない証しと受け取った。社会主義の新たな形態がもう一つの近代性(アン オルタナティブ モダニティ)の見本となるかもしれないと希望を持つことは少なくとも可能であった。こうした展望が技術決定論を論駁すること、また、近代性(モダニティ)の既成モデルの限界を熟考することへと駆り立てたのである。しかし、われわれは現在、これらの希望が少なくともロシアに関しては実現されえなかったことを知っている。収入や平均寿命すら落ち込むというように、ギャング資本主義と社会的分解がはびこってしまった。ロシアが失敗したことを中国が達成できるか否か、それは今後明らかとなる。

 

 

この本の執筆へと至る10年間に、私は最初のオンライン教育プログラムの創設に関わったが、それは、カリフォルニア、ラ・ホーヤの西海岸行動科学研究所で1982年に着手された。フランクフルト学派の流れにあるヘルベルト・マルクーゼとの長年にわたる研究の後に、私は突然、インターネットが公に登場する以前の初期段階のコンピュータ・ネットワークの世界に投げこまれたのである。まもなく私は、大手コンピュータ・メーカー、デジタル・イクイップメント社のためにコンピュータ・コミュニケーションのインターフェイス・デザインの開発企画を監督するようになった。

 

 

発展の過程にある近代技術とこのように密接に関わったことから、私は代替となる近代性(オルタナティブ モダニティズ)を問ううえで長く変わらぬ意義をもつ教訓を得ることができた。コンピュータの発展の方向は装置の性格によって規定されるのではなく、ユーザーによって選択されるのである。ユーザーは、コンピュータを単に与えられたものとして受け取ったのではなく、それまで重要性が極めて過小に評価されていたコミュニケーション機能に向けて、コンピュータ・メーカーとコンピュータ・システムの管理者を方向転換させた。実際、インターネット上での活動の爆発が、われわれの持つコンピュータという概念を徹底的に変化させてきたのであり、予想できなかった形でこの社会のあり方を改変しているのである。

 

代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』は、その未来が不確定な世界、すなわち社会的運動や様々な倫理的、美的価値また一国の文化のうちに存する差異などの全てが近代性(モダニティ)の定義を左右しうる世界を描くために、近年の歴史がもたらした教訓を踏まえている。このような非決定論的な立場を裏付けるために、私は、近代性(モダニティ)の哲学的考察と科学・技術論の急成長をとげる領域とを初めて架橋する社会構成主義者の議論に依拠した。社会構成主義は、技術的発展が普遍的合理性によって決定論的に確定されるのではなく、様々な社会的な要素に依存するのだという経験的な証拠を提供している。この考えにおいては、行為者が理論的な事柄と同じくらいに重要である。私は、このアプローチを近代性(モダニティ)の様々な哲学への批判に、また皆さんが読もうとしている本書を構成する具体的な研究において適用した。

 

代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』は、技術的な発展は、理性だけでなく社会をもその条件とするのであるから、社会的活動の他の領域と同じように民主化されるべきである、と主張する。私の最も新しい著書『技術を問う』は、技術の民主的政治の本性について同様の主張を詳細な考察によってさらに展開している。この問いは、民衆からの広い提言なしに政府とビジネスエリートという狭い場で、重大な技術的決定が現在なされている中国に、もちろん関わりをもつものである。

 

 

近代技術は、かつて日本やロシアを、そしてさらに遡ればそれ自体を生み出した西洋諸国を変容させたように、いま中国を変容させている。しかし、これらの歴史的経験の間には確実に一つの違いが存在する。中国はまったく通例の国ではなく、西洋を単に模倣するならば世界の経済や生態系を必ず混乱に陥れるほど世界人口に大きな比率を占めている。これは運輸技術の場合に最も明白となる。中国は発展を続けるであろうが、自動車に依存することのない新たな発展の道をあみ出さねばならない。アメリカと等しい自動車の普及率が達成されたときの概数500,000,000台にのぼる中国フォードやフィアット、それを考えるとだれもが身震いする。

 

 

これは、中国が永遠に貧しさを運命付けられているという意味であろうか。まったくそうではない。今日われわれが何を豊かさと受け取るかは、変動する基準や価値と相関的である。こうした基準や価値は徐々に現実の制約に順応してきたのである。例をあげれば、最も手に入れたい自動車は、石油価格によってそのサイズに大きな変化があった。われわれアメリカ人は、OPECによる第一次オイルショックの後に小型車にただ甘んじたというわけではなく、実のところは、それまで乗っていた怪物よりも小型車の方が優れていると見なしだしたのである。しかし、石油価格が下落すると、アメリカ人は次第に大きさという美を再発見し、今や前よりも2倍も大きな自動車で走り回っている。ところが一方で、アムステルダム、パリ、そしてニューヨークの多くの住人は自家用車を一台も所有していないにもかかわらず、繁栄をとげているし満足もしている。人々の好みがこれほど多様であることが、経済文化の可変性を立証している。中国もまた、発展の現実的可能性と適合するように豊かさの自己のモデルを定めていくであろう。

 

 

中国は、豊かな国となって、いかなる世界を21世紀に築くであろうか。これは今日答えられる問いではない。より重要なのは、いかなる発展のプロセスがこの国に最も適するかを理解することである。この問いに関して見解の相違は大きい。私は部外者として外側から覗いているので、おそらく微妙な点はほとんど捉えそこねているだろう。それで、私の視点の限界をあらかじめお詫びしておく。しかし、中国はあまりに重要であり、部外者であろうと判断を差し控えるわけにはいかないのである。中国における発展に関する理論と実践の主流は、西洋では長らく厳しい批判にさらされ失墜したか、完全に放棄された西洋モデルの多くの特質に今なお固執しているように、私には見える。発展の独創的な方途の追求はまだ始まってはいない。逆に、西洋モデルの模倣が今日の風潮となり、例えば、社会に混乱を与え環境を破壊する巨大プロジェクトが、その魅力をアメリカやヨーロッパでは失っているとしても、中国ではなお一定の魅力を保っている。

 

 

このような状況において、技術と社会に関する西洋の考察は、より高度の選択力と批判力をもった姿勢が中国にもたらされることに貢献しうるはずである。中国の知的、政治的エリートが西洋の政府や法人の公認の宣伝だけでなく、これからの西洋の未来を形作ることに寄与する批判的な声をも考慮するとしたら、それはきっと中国にとって有益なものとなるであろう。さもなければ、中国はわれわれが「白象」と呼ぶもの、すなわち過去の正統性の厄介な記念物となってしまう危険にさらされる。

 

代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』の目指すところは、社会の未来は単に現在から量的に予測されるものではないという解放の思想を喚起することである。もちろん、われわれはこれを一般論としては知っているが、一般論を具体例に適用することはそれほど容易ではない。技術的な事柄においてわれわれは、量的な多寡という観点から、より多くのコンピュータ・パワー、より多くの電力、より多くの自動車や飛行機等々と考えがちである。量から質への転換点は見過ごされてしまうが、そこでは例えば、コンピュータ・パワーの増加が、コンピュータを専門的な仕事の道具から消費者技術へと変容させることになる。あるひと繋がりの発展から別のひと繋がりの発展へと結果的に移行することが、前もって予測されることはほとんどない。しかし、近代性(モダニティ)が技術の社会生活のあらゆる領域への浸透と定義される限り、われわれの技術的想像力のこのように明白な限界は、社会理論における容認できない限界となってしまう。

 

一つの「選択肢(オルタナティブ)」としての近代性(モダニティ)という考えは、可能性の幅を広げることを示唆している。この本は、そうしたテーマに関する多くの異なったアプローチを検討するが、最も重要なこととして、技術上の意思決定過程により多くの行為者を含むべきであると主張する。行為者ということばによって、われわれは、専門家、法人や政府の職員だけではなく、労働者、ユーザー、技術的発展の副次的効果の犠牲者や享受者等を含む、技術的ネットワークに組み込まれた全ての人々を意味している。これらの非公的行為者のそれぞれが発展について独自の視野をもっている。彼らの経験や意見は、フーコーが「従属的な知」と呼んだもの、権威ある地位につく者によっては、かすかに焦点化されるだけの現実の諸側面を下から暴いていく知を構成する。

 

 

「従属的な知」の影響のもとで進展した例を医学から提示しよう。これは、西から東へという見慣れた方向ではなく、東から西への逆方向の技術転移のケースである。この例で肝心なのは、開業している治療者と彼らの患者達によって広く認められている中国医学の長所を褒め称えることではないし、また、科学がこの治療の効果を解明するか否かに、私は関心をもつものでもない。そうではなく、この例が示そうと意図するのは、一般人が科学的―技術的専門職、この場合はアメリカの医学界に対して、建設的な結果をもって影響を与えることができるということなのである。

 

 

西洋医学は、長らく、中国医学を前科学的伝統の効果なき遺物として扱ってきた。アメリカ合衆国においては、こうした姿勢が中国医学を治癒法としての正当な地位からそれこそ効果的に放逐していた。それを薦める医者もいなかったし、漢方薬や鍼といった施術に対して支払いをする保険会社もなかった。しかしそれでも、アメリカの患者は、軟組織の損傷や慢性疾患の対症療法のように西洋医学が限られた治療効果しかもたない症状に対して、中国式の療法が有効であることを見出した。次第に多くの医師資格のない治療者がこうした療法を施すようになり、1990年代の初めには「代替医療」alternative medicineに対する要求は無視できないものとなっていた。こうした要求が、1992年、アメリカ国立衛生研究所に代替医療オフィスを設立させ、保険会社も結局はいくつかの中国式療法に対し費用の払い戻しを始めた。1998年には、これまでおかれていた地位のまさに驚くべき破棄ともいえるように、アメリカ医学協会誌が代替医療の全冊特集を刊行した。所収論文は、つい数年前であれば即座に却下されたであろう療法の有効性の立証に、盲検法による臨床試験という近代科学の方法を適用した。この逸話の教訓は単純明快である。科学の専門家もまた、彼らなりの偏見と染み付いた伝統をもっているということであり、そしてまた、彼らも、一般大衆と伝統的知識の担い手が役立てている経験の大きな蓄積と交流することで、学ぶことができるということである。

 

 

技術に関する民主的政治の核心は「従属的な知」と計画立案者や執行者のもつ公式の技術的知との間のコミュニケーションを増進することである。中国の技術システムのこのような民主的進展を支持することには、拒みがたい理由がある。まず、市民が抵抗や意見表明するのが困難なところでは、発展のコストと問題点が算定不可能だからである。これを可能にするためには、かなりの程度自由で生き生きした市民社会を必要とする。旧ソビエト連邦に属した国々は現在、世論から情報を得ることなく進められた産業化が引起こした環境破壊の莫大なつけを支払っている。しかし、同様に重要なのは、社会の基礎をなす民衆と発展に責任をもつ人々との間にコミュニケーションの回路が開かれることがなければ、中国固有の状況から生まれる独創的な道を見出すことは不可能であろうということである。発展途上国の孤立した技術エリートは、いかなる意図をもとうとも、西洋が結局は正当性の源である以上、外国モデルを模倣することしかできない。全ての民衆の豊かで複合する相互作用だけが、中国に相応しいもう一つの近代性(アン オルタナティブ モダニティ)を創出することができる。そして、それこそが間違いなく中国に値するものである。

 

 

 

[解説]

 アメリカの技術哲学研究における中心的存在の一人であるアンドリュー・フィーンバーグ、サンディエゴ州立大学教授が、20015月から7月にかけて東京大学大学院において客員教授として講義をされた。その講義は、ハイデガー、マルクーゼ、ハーバーマス、フーコーらの技術についての見解を解説し、それらの限界をも指摘しつつ自身の立場である「技術の批判理論」を展開するものであった。錯綜する題材と議論を明快に整理しながら、技術への民主主義的介入が可能な根拠と必要性を説く姿勢に接して、さわやかな感銘を受けたのは、訳者ばかりではないであろう。

 ここに訳出したのは、同氏のAlternative Modernity, University of California Press, 1995.の刊行が予定されている中国語版への序文である。オルタナティブな進路の模索が、国内的にも、また地球規模の問題としても不可避である中国。そうした現実の差し迫った課題を抱えた社会の読者に対して語りかけるという、自らの技術哲学思想が試されるともいえる場面において、フィーンバーグはやはり沈着に共感を込めて語っている。したがって、そのメッセージは理解しやすいものであるが、彼の技術思想の要をなすとともに、この序文の主張の基盤ともなっている技術の非決定論的性格について、『技術 クリティカル・セオリー』における「工作の許容域」と『代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』における「行為者」という視点を中心に若干の解説を試みたい。

 

<略号および邦訳>

CT: Critical Theory of Technology, Oxford University Press, 1991.

    邦訳:『技術 クリティカル・セオリー』 藤本正文訳 法政大学出版局 1995年。

AT: Alternative Modernity (前出)

QT: Questioning Technology, Routledge, 1999.(直江清隆氏による邦訳が近刊予定)

 

 序文のはじめの論点からも明らかなように、技術決定論の立場からは唯一のモダニティが帰結し、モダニティの複数性は否定されて、そもそもオルタナティブを論じる余地はない。さらに、中国の読者に対しては、中国においてこれまで(あるいは現在も)支配的な伝統的マルクス主義の技術論が基本的には技術決定論であるということもあって、技術のもつ非決定論的性格の確認は、この序文でも欠くことのできないものとなっている。

 技術決定論をフィーンバーグは次のように定義する。 1. 技術の進歩のパターンは固定的であり、あらゆる社会において同一の軌道に沿って動く。政治的、文化的、およびその他のファクターは変化のペースに影響を与えるのみである。 2. 社会組織は技術の掲げる不可避な要請にしたがい技術の進歩に適応しなければならない。(CT p.122, 邦訳p.240 しかし、こうした決定論的見解は、技術史や技術の社会学が明らかにする具体的な多くの事例によって反駁されてきた。フィーンバーグもまた、技術の発展過程は歴史的、社会的文脈に依存するが、そうした文脈を抽象化、脱文脈化することから技術決定論が生まれる、と考えるのである。

 『代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』に先立つ『技術 クリティカル・セオリー』においては、文脈依存性がブラック・ボックス化されたことによって生ずる決定論の単線的発展図式に対して、複雑な社会的文脈に組み込まれているが故に、技術がもつことになる本質的な両義性が強調されている。マルクスの労働過程の理論を技術批判の先駆と評価するフィーンバーグは、労働過程の考察に、資本家が生産に対して獲得する「運営的自治」operational autonomyと労働者の側が保持する「工作の許容域」margin of maneuverと名付けるものを導入する。(第4章) 資本主義的な分業体制において、資本家は作業を自己の利益にかなうようデザインする権利を持つ「運営的自治」を遂行するが、一方、労働者も資本家の「運営的自治」のもとに完全に隷属するのではなく、「工作の許容域」というある種の自治の領域を獲得する。「工作の許容域」は、例えば、作業の進行速度を操作すること、同僚を護ること、公認されていない即興的な生産を試みること、さらには、インフォーマルに合理化や革新を企てることなどとして活用される。したがって、労働者も生産労働においてまったく受動的なわけではなく、この領域を活用することで、生産システムの形態や目的をある程度は変えることができ、ある場合には、支配の構造を改変したり弱めたりすることができるのである。このように、工場の生産工程という技術的デザインが社会関係を反映することからも明らかであるが、技術は単に道具として中立的性格をもつものではない。しかし、それはまた自律的な存在でもない。社会や使用者は技術にただ受身的に適応するのみではなく、継承された技術をデザインし直すことができるからであり、技術のそうした性格は生産の場における日々の労働過程にも内在しているのである。

 フィーンバーグの創り出す概念装置の一端にまず触れたが、その思想のスタイルの特徴は、理論的乗り越えの糸口を現実の中に見出すところであろう。序文中にもあるように、彼は1980年代に「最初のオンライン教育開発プログラムの創設」に関わり、また、初期の「コンピュータ・コミュニケーションのインターフェイス・デザイン開発企画を監督する」という経験を有した。こうした技術の現実的な発展の場面が、この技術の哲学者に見逃されるはずはなく、デジタル・イクイップメント社(DIC)におけるコンピュータ会議システムの開発過程は『技術 クリティカル・セオリー』(第5章)において次のように考察されている。同社では早くから、コンピュータを複数の統合的システムの中で結びつける分散処理型社内ネットワークの構築の取り組みがなされていた。プログラマーやシステム開発者はこのネットワークによって接続されながら製品開発を行っていたが、このような実務形態は、社員の水平的な連帯と連合による仕事の遂行という同社の特徴を一層顕著にする働きをした。こうしてネットワーク化されたプロジェクト・グループが同社の全世界的な営業網に広がったが、その機能向上のために自社用の最初のコンピュータ会議システムが開発されたのが1986年であった。そして、この自社用システムに改良を加えたものが、同社のコンピュータ会議システムとして後に販売されたのである。

 こうした開発過程には、コンピュータ・システム開発の内部で、コンピュータがコミュニケーション機能を果たすという、コンピュータ・テクノロジーにおいて特に明瞭に現れるが、技術一般の性格でもある再帰性を見ることができる。この再帰性のうちで、システム開発者は自分達が必要とする機能をより明確に把握し、その実現をはかっていったのである。フィーンバーグはさらに、同社内のネットワークのうちには、業務に関する会議にとどまらず様々な社交上の会議から、多発性硬化症に悩む社員の会議までが立ち上げられていったことにも注目する。つまり、コンピュータ(ソフトウエア)という新たなテクノロジーの開発の場面においても、コンピュータのもつ自動装置としての働きとコミュニケーションの手段という働きの相克の中から、前者を超えて後者へと展開していく動きが、開発にあたったコンピュータ実務家が「工作の許容域」を活用することによってもたらされたのである。

 コンピュータをめぐっては、当初からこれによって社会は救済されるという楽観的言説と社会に悪夢をもたらすという悲観的言説とが存在したが、先にあげた具体的開発過程が示しているのは、コンピュータも他の技術と同様に開発の枠組みの中で異なるテクノロジーに発展する可能性をもつという第三の立場の正しさである。フィーンバーグが「テクノロジーの介在は予見できないような結果をももたらす」(CT p. 88, 邦訳p. 176)と主張するように、この例も技術の発展の方向性が予め決定されているのではないことを示している。ところが、「楽観論と悲観論の不一致は、実は、選択肢としての異なる未来についてではなく、異なる宿命をもった一つの未来についてのものである」(A p.143)と言われるように、対立すると見える両者はともに、技術の非決定性とそこに宿る可変性を捉え損ねているのである。これは、技術の哲学の立場として道具主義の中立説も本質主義の自律説も共に、技術を採るか採らないかと思考していることに繋がっている。前者の場合には単なる道具は適用の範囲や効率が問題になるだけで、技術のデザインや構造のあり方は問題にならない。後者の場合には、われわれを支配する文化そのものであるから、全面的な諦めか拒否しか道はなく、やはり技術そのものを変えることはできないのである。(CT p. 8, 邦訳p. 12

   さて、『代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』においてもコンピュータ・テクノロジーが考察されるが(AM chap.6,7)、それは、『技術 クリティカル・セオリー』の考察が企業内における開発過程であったのに対して、コンピュータが社会の内にいかにして取り込まれ、コンピュータ社会が形成され始めたかを明らかにするものである。1980年前後に各国で、来るべきポスト産業社会、情報社会へ対応する国家政策がとられ、ビデオテックスというシステム・ソフトによる国家的な情報網の構築が試みられた。米、英などでこの試みは失敗に終わったが、フランスにおいてだけ「奇妙にも」、テルテルと呼ばれるシステムの端末であるミニテルが80年代末までに数百万台設置されるという成功を収めた。当初、フランスにおいても他の国々と同様に、中央の巨大コンピュータに保存された情報を家庭などの端末に伝達するものとしてシステムが構築された。システムのスタート時点での構成は、近代官僚制とアカデミズムにおける科学・技術のヘゲモニーを反映していたのである。1981年にミニテルの無償の配布が始まったが、システム内のデータの利用状況は低調であった。しかし、情報内容への国家の統制・干渉を批判する政治的な闘争や交渉の時期を経て、ハッカー(コンピュータの有能な使用者という原義における)が情報サービスの技術支援機能の一つをメッセージ・サービスへと改造した。この「発明」がシステム管理者の抵抗を超えて制度化されると、様々なメッセージ・サービスが出現することとなったのである。ひとたび、コミュニケーション機能への流れが出現すると、使用者である民衆はミニテル・システムを、その設計者達がまったく想像しなかった流れの方向へと急激に発展させていった。フィーンバーグは、フランスにおける成功の鍵を、ミニテルが情報技術からコミュニケーション技術の方向へと転換したこと、すなわち、コンピュータの再定義がミニテルの使用者によって初めて大規模なかたちでなされた事実のうちに見出すのである。

 以上のような、コンピュータ技術のDICにおける開発過程とフランスでの社会的受け入れ過程が示しているのが、この序文で言われる「コンピュータの発展の方向は装置の性格によって規定されるのではなく、ユーザーによって選択されるのである」ということである。そうであるにもかかわらず、歴史的な現実として辿った過程が「閉じられる」と、コミュニケーション技術に利用されるようになった進展を、コンピュータ機能それ自体の発展とする技術決定論的な理解が生まれるのである。

 

 ところで、『技術 クリティカル・セオリー』で考察された開発過程におけるユーザーは、コンピュータ会社の専門家ユーザーであったのに対して、この『代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』ではミニテルのユーザーという一般ユーザーであるという違いが存する。序文において、「量から質への転換点」による技術の予想されなかった発展への移行が言及される際に、「コンピュータ・パワーの増加が、コンピュータを専門的な仕事の道具から消費者技術へと変容させる」と言われているように、フランスにおけるコンピュータ機能の再定義の歴史的経験は、コンピュータが「消費者技術」となっていく歴史的経験の一歩でもあった。フィーンバーグが、こうして『技術 クリティカル・セオリー』での生産の場におけるコンピュータと『代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』での「消費者技術」としてのコンピュータ双方に注目して考察を二重化したことは、大きな意義をもつであろう。「近代性が技術の社会生活のあらゆる領域への浸透と定義される」ように、技術はいまや生産の場に限定されているのではなく生活環境をなしているのであるから、生産の場に限定された考察は意味をもたない。ところが、伝統的に技術哲学や技術論において消費が問題とされることは稀であった。技術によって生産された財やサービスが消費者によって消費される、というように、技術は多くの場合に生産労働の局面でとらえられてきた。もちろん、生産過程は同時に消費の過程である(DICにおけるコンピュータ使用もそう解釈できる)ことや、社会的に消費が生産を生み出すという一般的な議論はあった。しかし、そうした議論を超えて、ここでは、消費が技術の使用であり、消費としての技術の日常的使用が技術のあり方そのものを規定していくことが具体的に明らかにされているのである。

 さらに、消費の局面を積極的にとらえたことは、技術に関わる「行為者」の範囲を拡張する方向を切り開いた。再び序文に戻れば、「行為者ということばによって、われわれは、専門家、法人や政府の職員だけではなく、労働者、ユーザー、技術的発展の副次的効果の犠牲者や享受者を含む、技術的ネットワークに組み込まれた全ての人々を意味している」のである。行為者の拡張も近代技術の理解において欠くことのできないものであった。例えば、技術的発展の副次的効果の犠牲者ということばからも明らかなように、環境問題は技術的発展が環境内存在の全てに関わる問題であることを否応なく示している。しかし、ここでフィーンバーグにとって重要なのは、われわれが至るところで技術的ネットワークに組み込まれてしまったということではない、むしろ、技術的ネットワークに組み込まれながら、さらには、技術的ネットワークに組み込まれているからこそ、そのネットワークを改変することができるということである。そうした状況を典型的に示す三つのタイプが、環境問題、コンピュータの発展、医療問題であると本文では指摘されているが(AM pp. 38-39)、この序文においても、これら三分野に中国に即した例を用いて言及されているのである。

 

 医療問題に関して、本文5章の「被験者(=人間的主体)であること」On being human subjectにおける、エイズ治療薬の臨床治験をめぐって患者の果たした役割の考察を見よう。エイズ患者は医療・技術ネットワークにまさに抜き差しならず巻き込まれているからこそ、それを変革せざるをえず、また、変革することができたのである。医療という技術において、技術を用いて行為するのは医師であり、患者は医師の治療行為の対象であって行為者ではない、と一般には考えられる。しかし、エイズの治療薬開発において患者の果たした役割は、こうした医師―患者関係の構図を覆すものであった。

 エイズ治療の新薬開発過程で行われる臨床治験が困難な問題にぶつかった。患者は少しでも期待の持てる新薬の投与を受けようと治験に志願するが、治験の倫理的な規制からその希望が満たされない者が多かった。新薬の治験に関する規制は、製薬会社の利益追及や治験における人権侵害から患者である参加者を保護するために設けられたものであったが、エイズ患者の切実な要求とは齟齬をきたしたのである。こうした状況をエイズ患者の運動が変えていくことで、規制の壁が低くなり、治験に参加できる患者の数は増加した。フィーンバーグは、パターナリスティックな医療制度のテクニカル・コード(社会の支配的な価値や信念がデザインの過程を通して技術に反映されたもの)が、治験参加者の利益を排除していたことを指摘し、こうしたテクニカル・コードが改められたことによって得られた患者の利益を、「ケア」という観点から捉える。治療効果としてはあまり大きな意義を見出せない治験が、患者にとっては、それに参加することによって使命とリスクを医師と共有するという体験となり、「効果」をもつのである。ここには、医師―患者の共同的な関係が現れているが、その変化をより明白に示すのが、ACT UPAIDS Coalition to Unleash Power「力を解き放つためのエイズ連帯」)の活動の展開である。『代替する(オルタナティブ)近代(モダニティ)>』ではわずかに触れられるのみなので、『迷路のなかのテクノロジー』(H.コリンズ・T.ピンチ著、化学同人)を参照し補ってみよう。

 治験への参加が容易になったとはいえ、新薬開発が円滑に進んでいったわけではなかった。新薬が認可に至るまでのハードルを越えるのに要する時間は、死に瀕する患者にとっては重大な問題であった。また、治験に際して、新薬の効果を科学的に立証するために偽薬を用いた盲検法を実施するが、それが意味するのは、患者の中にはまったく薬効をもたない物質をあてがわれる者がいるということであり、しかも、対照試験としての精度を高めるためには、偽薬を与えられた側には既に有効と確認された治療は施されないということであった。医薬関係者が、将来の患者のためにこうした犠牲はやむをえないという姿勢をとる中で、エイズ患者たちは偽薬を見破る力をつけるとともに、有望な薬を「非合法」なルートから入手するようになっていった。このような状況で、ACT UPは抗議キャンペーンを展開したが、一方では医学者達との議論を通して彼らと連携する方針を持っていた。患者や支援者がエイズとその治療法に関して医学的な知識を身につけていくと、専門家も瞠目し、やがて彼らがそうした「素人」に質問をするようになっていった。というのも、患者や支援者はエイズに関して「素人」ではなく、エイズ患者はエイズ患者という「専門家」であって、そこから極めて的確に発言していったからである。彼らの提言を学会や行政当局が受け入れていくことで、非専門家グループによる臨床治験の科学的実施要領の再編が達成されたのである。 

 

 ここには、エイズ患者という行為者の技術への介入によって、臨床治験という医療技術のあり方が変革されていった経緯を極めて明確に見ることができる。そして、エイズ患者は、医療技術のネットワークに組み込まれている中で、初めは犠牲者ないし受身の行為者として登場したが、そのネットワークに対して要求をつきつけながら、患者団体の構成者、狭義の政治的行為者、医学的知識の学習者、患者の「専門家」、技術ネットワークの改革者というように、行為者として変容しつつ複合的な存在であることも見て取れる。さらに『技術を問う』では、エイズ患者と異なりグループを構成することが稀であった他の疾病の患者たちが、インターネットによって患者のコミュニティを形成していくことに目が向けられている。(QT p.192 医療技術ネットワークの行為者は同時にコンピュータ・ネットワークの行為者でもある。技術ネットワークに組み込まれた行為者は、あるネットワーク内の間・行為者inter-actorであり、また同時に他のネットワークの、さらにはネットワーク間の間・行為者でもある。その交流である相互作用interactionにフィーンバーグが、「全ての民衆の豊かで複合する相互作用だけが、中国に相応しいもう一つの近代性(アン オルタナティブ モダニティ)を創出することができる。そして、それこそが間違いなく中国に値するものである。」と期待を込めて序文を結ぶのは、彼の技術観の確信に基づいてもいるのである。