民主的な合理化─技術、権力、自由─

アンドリュー・フィーンバーグ(サンディエゴ州立大学) 
直江清隆訳
(なおえ きよたか 山形大学教育学部)   

『思想』No.926 (2001年7月号)32-57ページ




 
【訳者解題】本稿は、Andrew Feenberg, Democratic Rationalization: Technology, Power and Freedomの翻訳である。この論文は、当初、Substantive Rationalizationの題名で"Inquiery" 35, nos.3/4, 1992に掲載されたのち、Andrew Feenberg, Alastair Hannay(ed), Technology and The Politics of Knowledge, Indiana University Press, 1995に転載された。今回訳出したものは、著者の最近の考えを反映するべく、題名のほか、末尾の4分の一ほどに改訂が施されたバージョンである。フィーンバーグ本人も認めるように、本稿は彼の最近の見解を概観する上で、きわめて好便なものといえよう。

 著者のアンドリュー・フィーンバーグは、サンディエゴ州立大学の哲学科教授。批判理論をもとにした技術哲学の論客として著名である。著書に、Lukcs, Marx and the Sources of Critical Theory (Oxford University Press, 1986)Critical Theory of TechnologyOxford University Press, 1991[翻訳:『技術─クリティカル・セオリー─』藤本正文訳、法政大学出版局、1995]、Alternative ModernityUniversity of California Press, 1995)、Questioning Technology(Routlege, 1999)[岩波書店より翻訳が近刊]などがある。Alternative Modernityには、マルクーゼ、アドルノ、フーコー、ハバーマスらの所論に対する批判的検討や、エイズや情報技術に関する事例研究とともに、西田哲学についての研究が含まれていることが象徴するように、日本の哲学、文化についての造詣も深い。

 著者の議論の背景にあるのは、一つには技術は政治その他の文脈から中立な過程であり、社会はこれに適応すると考える「技術決定論」の立場であり、また、技術の本質は合理性、効率性、あるいは支配にあるのであり、こうした技術の本質にこそ近代文明の主要問題に対する責任があると考える技術の「技術本質主義」の立場である。前者はテクノクラシーに直結し、後者は批判としてのディストピア(逆ユートピア)論である。フィーンバーグはまず、これらの議論の共通の前提として、技術が自律的で単線的な進歩という性格をもつとする点を取り上げ、科学や技術の社会学における社会構成主義の成果を援用し、技術が単純に効率性を指向するものではなく、複雑な社会的文脈のうちに現実化される営為であることを明らかにする。決定論は、こうした複雑な過程が被覆され、自明なものとしてブラックボックス化した結果生じた思念にすぎないのである。このような効率性の神話に依拠する「技術のフェティシズム」への批判は、彼にかぎらず現在の技術哲学に広く見られる傾向であるが、このように社会構成主義を取り入れつつ右の二つの立場を退ける議論運びは、『技術─クリティカルセオリー』以降のフィーンバーグが見せた新たな進展の一つである。

 著者の積極的な主張の一つは「民主的な合理化」である。ヴェーバーの「鉄の檻」という言葉に端的に表されているように、テクノクラシーに直結した技術決定論は、資本主義的にせよかつての社会主義的にせよ、産業社会の制度への参加の制限を正当化するイデオロギーを形成する。それは技術に対する民主的な介入は効率性を犠牲にするという俗信を土台にしている。それゆえ、効率性の神話に対する批判は、技術化された社会における非民主的な権力構造を打破し、主体的関与を回復するための政治的な方途でもある。こうして、民主的な合理化は、技術に対する市民の関与にもとづく合理化という意味をもつ。他方、本質主義が批判するような合理性もたんに投げ捨てられるわけではない。こうした合理性は近代の地平をなしており、技術的設計はこの合理性が近代のヘゲモニーの基礎として実効性をもちうるための鍵をなしているからである。こうした合理性が社会的文脈から脱文脈化された技術と結びついているとするならば、それに対する戦略は、労働者の技能や環境への影響、それらの美的・倫理的側面、分業の編成や権力の分配などに関する民主的な過程を技術に内在的なものとして再文脈化し、設計を変化させて、それらを技術のうちに具体化しすることなのである。

 もちろん、こうしたフィーンバーグの議論に対する批判がないわけではない。Questioning Technologyの発表後、いくつものシンポジウムにおいて同書に対する応答が行われている。例えば、1999年にサンノゼで開かれた技術哲学会では、D・スタンプより、社会構成主義の顔と本質主義の顔を併せ持つ「ヤヌス」であるという批判が寄せられ、また、2000年のアメリカ哲学会ではI・トンプソンによって、ハイデガー擁護の立場から、「技術本質主義のどこが間違いなのだろうか」という発表が行われている。これらの議論は、フィーンバーグのHP上(http://www-rohan.sdsu.edu/faculty/feenberg/)で閲読することが可能である。しかし、これらの議論のなかで、もはや旧来の図式へのたんなる逆戻りではすまされないことが、明らかなものになりつつある。フィーンバーグの技術哲学は、議論を巻き起こしつつ、着実にその裾野を広げつつあるのである。






一、民主主義理論の限界

 技術は現代社会における公権力の主要な源泉の一つである。日常生活に影響を与える決定がどのように行われているかを考えてみれば分かるように、政治における民主主義よりも、企業や軍の指導者、あるいは医師、技術者などの職能者集団といった、技術システムの支配者たちの方が巨大な権力を行使している。社会の政治的制度すべてをよせ集めたよりも、これらの支配者たちの方が、都市の成長のパターン、住居や輸送システムの設計、技術革新における選択、被雇用者、患者、消費者としての経験、こうしたことをコントロールする上ではるかに大きく関与している。

 マルクスは十九世紀半ばにこうした状況が到来しつつあることを目のあたりにしていた。彼によれば、伝統的な民主主義の理論は、経済を、供給と需要の法則のように自然法則に支配され、政治の外の領域にあるものとみなす誤りを犯している。われわれは産業における意思決定に発言権をもたないかぎり、権利を剥奪され、疎外されたままであると、彼は主張する。民主主義は政治の領域から労働の世界に拡張されなければならない。これが社会主義思想の背景にある根本的な要求である。

 現代社会は、一世紀以上にわたってこの要求による挑戦を受けてきた。民主主義の政治理論からは、この要求を原則的に拒絶するための説得的な根拠は出されていない。たしかに、数多くの民主主義の理論家がこれを是認してきた。さらに、いくつもの国で、議会における社会主義者の勝利や革命が、党をこの要求の達成に奉仕する権力の座に押し上げた。しかし、今日になっても、マルクスの時代にくらべて産業主義の民主化に大きく近づいているとは思われない。

 この状況は、通常、次の二つのいずれかの仕方で説明されている。

 一方で、常識的な見方は、現代の技術は労働現場の民主主義と両立しえないと主張する。民主主義の理論は、社会の経済的基盤を破壊する恐れをはらんだ改革を、正当なものとして求めることはできない。その証拠として、ソビエト連邦のケースを考えてもらいたい。共産主義者たちは社会主義者であったが、彼らは産業を民主化しはしなかったし、いま進行中のソビエト社会の民主化は、工場の入り口までしかに達していない。少なくとも旧ソビエト連邦においては、権威主義的な産業管理が必要であることにだれもが同意するであろう。

 他方で、少数のラディカルな理論家は、技術は産業の権力の集中に責任がないと主張している。こうした集中は政治的な問題であって、資本主義や共産主義のエリートたちがその支配下にある人々との闘争に勝利したことによるものなのである。現代の技術は、たしかに権威主義的な管理の役に立っているが、しかし、異なった社会状況のもとでは、民主主義的な仕方ではたらかせられることも可能だったというわけである。

 この第二番目の見方は、ふつうのマルクス主義とも民主主義の公式ともいくぶん異なったものである。私はこれから、ある修正を施したうえで、これを擁護する議論を行うことにする。この修正とは技術の役割に関するものである。私は技術のもつ役割が決定論的なものだとも中立なものだとも考えていない。私は、生産であれ医学であれ、教育であれ軍隊であれ、現代のヘゲモニーの形態は、社会活動における技術的な媒介にもとづくものであり、したがって社会の民主化には、政治的な変化とともに、技術の根本的な変化が必要であると考えている。

 これは議論の余地がある立場である。技術に対する常識的な見方では、民主主義の適用範囲は国家に限定される。これとは反対に、私は、民主主義が伝統的な境界線をこえ、技術に媒介された社会生活の領域に拡大されないかぎり、民主主義の使用価値は低落をつづけ、民主主義への参加は衰退し、われわれが自由な社会そのものとして扱っている諸制度は徐々に消滅することになると考えている。

 ここで議論の背景に言及しておきたい。現代社会は、技術に依存するものである以上、権威主義的ヒエラルヒーを要求しているという主張が、さまざまな理論によってなされている。私はまず、これらの理論の概要を検討することからはじめる。これらの理論はある種の技術決定論を前提しているが、これに対して私は簡単に歴史的、社会学的な議論を要約し、これらをつうじて論駁を行うことにする。次に、私が「技術の批判理論」と呼んでいる現代社会に対する非決定論的な理論が、概略的に述べられる。このオルターナティブとなるアプローチは、技術がもつ文脈的な面を強調する。それは支配的な見方では無視されてきたものである。私は、技術は自然に対するたんなる合理的な支配ではないと主張する。つまり、技術の発展もその影響も、ともに本質的に社会的なのである。さらに私は、こうした見方が技術の発展の基準としての効率に対して習慣的に抱かれてきた信頼を掘りくずすものであることを示す。この結論は、通常の技術理解によって締め出されてきた、広大な変化の可能性が開かれることになる。

二、ディストピアの近代

 ウェーバーの有名な合理化論は、産業民主主義を批判する独創的な議論である。本論文の「民主的な合理化」というタイトルは、ウェーバーの結論に挑戦し、それを逆転させるという意味をもっている。ウェーバーによれば、近代を特徴づけるのは社会生活における計算と支配の役割の増大である。それは、彼がいう官僚制の「鉄の檻」へといたる傾向である。したがって、「民主的」合理化とは一つの語義矛盾なのである

 ヴェーバーの世界では、いったん合理化に対する伝統主義の闘いが敗北してしまうと、その後からなされる抵抗ができるのは、ルーティン化され、単調で、先の予測ができるようなあり方に反対して、非合理な生活を再確認することだけなのである。これは民主主義的なプログラムでなく、ロマン主義的で反ディストピア論的なプログラムである。それはすでにドストエフスキーの「反体制通信」やさまざまな自然回帰イデオロギーに示されているものの一種である。

 本論文のタイトルは、ウェーバーの立場に潜んでいる二分法、つまり合理的ヒエラルヒーと非合理的な異議申し立ての二分法を拒絶するという意図でつけられている。私の考えでは、技術的進歩にとって権威主義的な社会ヒエラルヒーは実際は偶然的な次元であって、技術的に必要不可欠のものではない。もしそうだとするならば、社会の合理化の仕方には、支配の中央集権化ではなく、むしろ民主化であるようなオルターナティブがあるはずである。われわれは地下に潜伏したり、自由や個性のような脅されている価値の死守を固有の立場としたりする必要はないのである。

 しかし、現代の技術社会に対する最も強力な批判は、ウェーバーの見解にしたがって、このような可能性を拒否している。私が考えているのは、ハイデガーのいう「技術への問い」という定式化とエリュールの「技術現象」の理論のことである。これらの理論によれば、われわれは自分たちが創りあげてきたメカニズムのなかに組み込まれ、技術の客体にすぎなくなってきているのである。かつてマーシャル・マクルーハンが述べたように、技術はわれわれを「機械の生殖器官」に還元したのである。たった一つ希望がもてることは、精神の再生が漠然と喚起されていることであるが、これは新しい技術実践の特徴づけとしてはあまりにも抽象的なものである。

 これらは興味深い理論であり、また現代技術の反省のための場を開くのに貢献した重要なものである。私は、本稿の結論の部分で、ハイデガーの議論に立ち戻ることにする。しかし、まずは私自身の議論を先に進め、ディストピア論の原理的な弱点である、技術一般と十九世紀に西ヨーロッパで発展した特殊な技術との同一視という点に議論を専念させることにする。後者は、征服の技術であり、いままでにない自律性を要求する。また、その社会的な起源と影響は覆い隠されている。私は、こうしたタイプの技術はわれわれの社会に特有の特徴であり、「近代」の普遍的次元ではないと主張する。

三、技術決定論

 決定論は、技術が社会に関係なく説明できる自律的な機能的論理をもつという仮定にもとづいている。技術はおそらく目的をつうじてのみ社会的なのであり、そして目的というものはそれを抱く人の心の内にあるものだと想定されている。このように、技術は社会的世界から本質的に独立している点で、科学や数学と類似しているのである。

 しかし、科学や数学とは違って、技術は直接的で強力な社会的な影響をもつ。社会の運命は、技術という非社会的で、社会に影響を与えながらもそれとは相互関係にない要因に、少くとも部分的に、依存しているように思われる。これが「技術決定論」が意味することである。

 いま述べてきた近代に対するディストピア論的な見方は、決定論的である。したがって、もし現代の産業主義に潜在的に民主主義の可能性があると主張しようとするならば、これらの見方が依拠する決定論的な前提に挑戦しなければならない。この前提とは、私が単線的進歩のテーゼと土台による決定のテーゼとよんでいるものである。ここでこの二つの立場について簡単にまとめておこう。

 (1)技術の進歩は、単線的な進路、つまりより遅れた状態からより進んだ状態への固定的な軌跡をたどるように思われる。ありふれたどんな技術的対象についても、その発達を後から遡って眺めるならば、この結論は自明なものであるように思われる。しかし、実際にはそれは異なる蓋然性をもった二つの主張にもとづくものなのである。つまり、その第一のものは、技術の進歩は、より低い発展水準からより高い水準に進歩するというものであり、第二のものは、その発展は数々の必然的な段階がなすたった一つの順序にしたがうというものである。これから見ていくように、第一の主張は第二の主張とは独立であり、また必ずしも決定論的なものでない。

 (2)技術決定論はまた、社会制度は技術的土台からの「命令」に適応しなければならないと主張する。この見方は、むろんマルクスのある種の読み方に起源をもつのであるが、いまでは社会科学の常識の一部になっている。私は以下の節で、その意味することの一つとして、繁栄と環境の価値の間にあるとされる「トレードオフ」について、立ち入って論議することにする。

 この技術決定論の二つのテーゼは、脱文脈化した自己生成的な技術が、現代社会にとっての独特な基礎であるとする。このように決定論は、われわれの技術とそれに対応した制度的構造が普遍的であり、実際に地球的な視野をもつことを意味している。数多くの型の部族社会、数多くの封建社会、さらには数多くの型の初期資本主義があるかもしれない。しかし、たった一つの近代があるだけであって、それはよかれ悪しかれわれわれの社会に体現されているのである。発展途上の社会については注意が必要である。かつてマルクスが述べたように、過去に対する注意を喚起する点で、ドイツはイギリスの発展と同郷人なのである。「De te fabula narratur」−あなたのことが語られたのだ

四、構成主義

 決定論が意味することは、ごく自明のことと思われる。そのため、その二つのテーゼがいずれも綿密な吟味に耐えられるものでないと分かるとすれば、それは意外なことである。しかし、現代の技術の社会学は単線的な進歩という第一のテーゼを掘り崩しており、他方、歴史的な先行事例は土台による決定という第二のテーゼに対して手厳しいものである。

 最近の技術の構成主義社会学は、新しい科学社会学的な研究から発達した。これらの新しい社会学的な研究は、非科学的な信念を社会学的な検討に付す一方でそうした検討の対象から科学理論をはずすような傾向に対して、異議を申し立てる。それらの研究は、すべての競合する信念は真か偽かにかかわりなく同じ種類の社会的説明にしたがうとする「対称性の原則」を主張する。技術に対する同様のアプローチは、技術の成功が純粋に機能的な根拠にもとづくという月並みな仮定を拒否する。

 構成主義は、理論や技術は科学的、技術的な基準で決定されているのではないと主張する。具体的にいうならば、これは次の二つのことを意味している。第一に、一般にどんな所与の問題に対しても、使いものになる解決法が[一つではなく]過剰に存在し、社会的行為者は、技術的に実行可能な一群の選択肢のうちから、最終的な選択を行う。そして第二に、問題の定義は、解決のあいだにしばしば変化してしまう、というものである。後者の論点は二つのうちでより決定的なものであり、またより困難なものである。

 ピンチとバイカーという二人の技術の社会学者は、このことを初期の自転車の歴史を例に説明している。われわれが自明な「ブラック・ボックス」とみなしている対象は、実際には、はじめはスポーツマン用の競走車と実用的な輸送用の乗り物という二つのきわめて異なった装置であった。スポーツマン用の自転車にみられたハイ・ホィールとよばれる大きな前輪は、当時は大きな速度を得るために必要なものであったが、それはまた不安定さの原因でもあった。前輪と後輪とが同じサイズの車輪は、前者よりはスリルは少ないが、より安全に乗りこなす目的でつくられた。この二つの設計は異なったニーズに応じたものであり、実際、共有された要素は多々あるものの、異なった技術であった。ピンチとバイカーは、「自転車」と呼ばれる対象に見られるこの根源的な曖昧さを、「解釈の柔軟性」と呼んでいる。

 結局、「安全」の設計が勝利を収め、それがこの分野におけるその後のすべての進歩から恩恵をこうむることになった。つまり、後から遡って眺めると、あたかもハイ・ホィールの自転車が、古い「安全」自転車から現在の設計にいたる発展・進歩のうちで不体裁で効率性の低い段階をなしていたかのように思われるのである。実際には、ハイ・ホィール車と安全車は長い期間この分野を分け合っていたのであり、そのどちらもが他の一方の発展の一段階ではなかったのである。ハイ・ホィール車は、自転車の発展における一つの可能なオルターナティブの方向を表しているのであり、それは創生期において異なった問題に取り組んだものなのである。

 決定論は一種のホイッグ史観である。それは、出来上がった対象がもつ抽象的な技術的な論理を、発展の原因として過去に投影し、かくしてあたかも物語の結末がまさしくはじめから必然的だったかのように思わせるものなのだ。そうしたアプローチは、過去についての理解を混乱させ、異なった将来に向けた想像力を窒息させるのである。構成主義の研究者たちは、いまのところこの方法に含意されるより大きな社会的問題に携わることをためらっている。だが、構成主義はこうした異なった将来を開く可能性をもっているのである

五、非決定論

 単線的進歩のテーゼが崩れるとするならば、技術的土台による決定という概念も、それに大きく遅れることなく崩壊せざるをえない。にもかかわらず、この概念はいまだに現在の政治的な討議の中でしばしば援用されている。

 この論議には後ほどたち戻ることにし、ここでは現在見られる態度を驚くほど先取りするものが、十九世紀中頃のイングランドの労働日の長さと児童労働をめぐる闘争にみられることを考察しておこう。工場所有者と経済学者は、規制はインフレを引き起こすという非難を行った。産業における生産は[低廉な]児童労働と長い労働日を必要とするものと考えられていた。議会のメンバーの一人は、規制とは「間違った人間性の原則であり、結局は必ずや人間性それ自身をだめにするものである」と言い放った。さらに彼は、新しい規則は「原理的に、工場労働の全てのシステムを一掃するとする議論」を引き起こすほど過激なものだと主張した10。今日では、同じような抗議が、いわゆる環境「ラッダイト主義」からの脅威にさらされた産業界の側から聞こえてくる。

 しかし、ひとたび規制する側が労働日に制限を課し、子どもたちを工場から追い出すことに成功すると、実際にはなにが起こったであろうか。技術的な命令の侵犯によって、彼らがたびたび悩まされることになったであろうか。けっしてそうではない。規制は、いずれにせよ以前の条件とは両立しないものになった工場労働を強化することになった。子どもたちは労働者であることをやめ、あらためて学習者と消費者として社会的に定義された。したがって、彼らはより高いレベルの技倆と訓練を身につけて労働市場に入ることになり、技術的な設計はすぐにこれらの能力を想定するようになった。その結果、児童労働によってインフレーションが抑制されていた古きよき日への回帰へのノスタルジーを抱く人はだれもいないのである。このような過去のあり方は、もはや一つの選択肢と考えられなくなるのである。

 この例は、技術システムがかなりの柔軟性をもつこと示している。このシステムは融通がきかない拘束的な性格のものではなく、反対に、さまざまな社会的要求に適応できるものなのである。この結論は、前に議論したように技術が社会による再定義に答えるものであると仮定するならば、驚くべきものではないであろう。技術は、歴史の謎を解くキーではないにしても、ますますその重要さがましてきているが、にもかかわらず、まさにこのことは技術がいま一つの社会的な従属変数であることを意味している。

 これまで主張してきたように、決定論を特徴づけるのは単線的な進歩の原則と土台による決定の原則である。もし決定論が間違いだとするならば、技術研究はこれと反対の次の二つの原則に支配されなければならない。第一に、技術の発展は単線的なものではなく、数多くの方向に枝分かれしたものであり、一般に複数の異なる軌跡をたどってより高い水準に到達する可能性があったものなのである。そして、第二に、技術の発展は社会を決定づけるものではなく、技術的および社会的要因によって決定される。

 この立場の政治的な重要性もいまや明らかであろう。決定論が民主主義の限界の見張りをしているような社会においては、非決定論は政治的なものであるよりほかはない。もし技術が多くの未開拓の可能性をもつとするならば、いかなる技術的命令も現在の社会的ヒエラルヒーに命令を下すものではない。むしろ、技術は社会的な闘争の一局面なのであり、市民の手によるオルターナティブにあふれた「事物の議会」なのである。

六、技術の解釈

 私は次の節で、技術に対する非決定論的アプローチにおけるいくつかの主要なテーマを提示したいと考えている。これまであらましを述べてきたことは、技術の定義における重大な変化を意味している。もはや技術は装置の集合体であると考えることも、またより一般的に合理的な手段の総計であると考えることもできない。こうした定義は、技術を実際よりも機能的なものと思わせる一方、実際より社会的でないものと思わせる傾向がある。

 技術は、他の文化的人工物と同じように、一つの社会的対象として解釈を受けるべきである。しかし、それは一般に人文学の研究から排除されている。われわれは、技術の本質が解釈学的に解釈しうる意味にあるというより、むしろ技術的に説明しうる機能にあるものと確信している。どれほど大きく見積もっても、人文学的な方法は、包装や広告のような技術の外面や、あるいは原子力や代理母のように論争の的になっている技術革新に対しての大衆の反応を明るみにだすだけである。技術決定論はこのような態度から力を得ているのである。技術と社会の結合の大半を無視するかぎり、技術が自己生成的なもののようにみえることはなんら不思議なことではない。

 技術的対象は二つの解釈学的次元をもっている。私はそれを社会的意味文化的地平とよんでいる11。社会的意味の役割は、前に紹介した自転車の事例で明らかである。われわれは、自転車の設計は初期の段階では複数の解釈の競合によって支配されていたことをみてきた。つまり、それはスポーツマン向けの玩具であるべきなのか、それとも輸送の手段であるべきなのかという争いである。車輪サイズのような設計上の特徴も、かれこれの対象のタイプを示すのに役立った12

 これは解釈学的な意味などもたない、たんに初期にはよくみられる目標をめぐる不一致にすぎないのだ、という反論がなされるかもしれない。対象がいったん安定してしまうと、技術について決定的なことをいう権限は技術者に独占され、人文学的な解釈者の出る幕はなくなってしまう。これは大方の技術者や経営者がもっている見方である。彼らは「目標」の概念は喜んで把握するが、しかし「意味」を相手にはしないのである。

 実際、目標と意味の二分法は機能主義者の職業文化の産物であり、それ自身いまの経済の構造に根ざしている。「目標」の概念は、技術の社会的文脈を剥いで丸裸にし、技術者や経営者が仕事のためにいま知る必要があることだけに焦点を合わせるのである。

 それに対して、より視野を広くとった図式では、技術的対象の社会的な役割とそれによって可能になる生活様式の研究がもたらされることになる。この図式では、「目標」という抽象的な概念は具体的な社会的文脈の中におかれる。これによって技術の文脈的な原因と結果というものが、貧困化された機能主義の背後におおい隠されることなく、目に見えるかたちになる。

 機能主義者の見解は、対象が技術的に生まれていく過程のなかから、脱文脈化された時間的な横断面をもたらす。すでにみてきたように、決定論は、信じがたいことに、そうした対象の一つ瞬間的状況から次の瞬間的状況への移行が純粋に技術的な関係で行われうるのだと主張する。しかし、現実の世界では、さまざまな種類の予測しがたい態度が技術的対象のまわりに結晶し、その後の設計の変化に影響を及ぼす。技術者は、こんなことは自分が取り組んでいる装置にとって外部のことだと思うかもしれない。しかし、これらの態度は、歴史的に展開する現象として、技術的対象のまさに実体をなすものなのである。

 以上の事実は、ある程度は技術的な分野それ自身、とくにコンピュータにおいて認められる。ここに先に検討した自転車のジレンマの現代版がみられる。速度、パワー、メモリーにおける進歩があっという間になされる一方で、企業の企画立案者たちはいったいそれらが何の役に立つのかという問題に取り組んでいる。技術的な発展ははっきりと特定の方向を向いているわけではけっしてない。その代わりに、この発展は分岐を開くのであるが、最終的に「正しい」分岐を決定することは工学の能力の埒外である。それは、そのことがたんに技術の本性に書き込まれていないという理由によるものである。

 私は技術的な機能とコンピュータの意味の複雑な関係がとくに明らかな例として、フランスのビデオテックスの事例を研究した13。テルテルとよばれたこのシステムは、電話加入者にデータベースへのアクセスを認めることによって、フランスを情報時代に突入させる、という目的で設計された。電話会社は、いかなるかたちにせよオフィス用品に似ていると消費者が拒絶するのではないかと危惧して、コンピュータの社会的なイメージを定義し直そうとこころみた。この器具はもはや専門家のための計算機という外見をもたず、万人向けの情報ネットワークになるはずであった。

 電話会社は新型の端末であるミニテルを、家庭用の電話の付属品に見えたり感じられたりするよう設計した。電話に似た外見はあるユーザーたちに、お互いにネットワーク上で話すことができるはずだという示唆を与えた。これらのユーザーたちの手ですぐにミニテルはさらに定義し直された。彼らの多くは、おもにこれを娯楽や友達づくりやセックスをお目当にした他のユーザーたちと匿名のオンラインで、チャットのために使用していた。

 このようにミニテルの設計はコミュニケーションに対する応用を生み出したが、それは企業の技術者たちがフランス社会における情報の流れの改善に着手したときには、意図されていなかったことである。こうした応用によって、ミニテルは、今度は個人の出会いの手段を意味することになった。それはもともとつくられたときの合理的な計画とはまったく対極にあるものである。「冷たい」コンピュータは「熱い」新メディアになったのである。

 変化の中で争点になるのは、狭く考えられたコンピュータの技術的機能だけではなく、まさしくそれによってどのような先進的な社会が可能になるかという点そのものなのである。ネットワークが情報時代への扉を開けるのは、われわれがデータに貪欲な合理的な消費者として最適化の戦略を追求するときなのだろうか。それとも、ポストモダンの技術こそが、リオタールの言葉でいえば「言語ゲームの柔軟なネットワークへの社会の原子化」を反映する、制度的で感情的な安定性の崩壊から現れるものなのだろうか14。この事例では、技術はあらかじめ定義された社会的な目的に仕えるたんなる召使いであるばかりではない。それは生活様式が練り上げられるための環境なのである。

 議論を要約しておこう。社会集団が技術的対象をいかに解釈し使用するかという方法の違いは、こうした対象にとってたんに外的なものではなく、対象の本性それ自身の差異をつくりだすものなのである。対象がそのいく末を最終的にきめる集団にとって何であるかが、時がたつにつれて設計し直され、改良されるときに、それが何になるかを決定づける。もしこれが事実だとすれば、技術的な発展を理解することは、関係するさまざまな集団の社会政治的な状況を研究することによってのみ、可能なのである。

七、技術のヘゲモニー

 これまで議論にのせてきた個々の技術的対象に関係するタイプの仮定に加えて、いまあげた状況にも、社会的価値に関する広範な仮定が含まれている。これは技術の文化的地平の研究がたずさわる領域である。技術のこの第二の解釈学的次元は、現代的なかたちでの社会的ヘゲモニーの基礎である。これはとくに技術社会におけるヒエラルヒーの必然性に関する問題という当初の問題と関連性をもっている。

 私はこれからヘゲモニーという言葉を使っていくが、ヘゲモニーとは社会生活に深く根ざした支配形式であり、そのため生活に支配力をふるうのが当然のことであるようにみえるものである。人によっては、これを文化の力を背後にもつ社会権力の分配の局面と定義するかもしれない。

 「地平」という言葉は、生活のあらゆる面に対する一般的な背景をなす文化的な一般的仮定のことをいう15。こうした仮定のいくつかは、いま支配的なヘゲモニーを支えている。例えば、封建的社会においては「存在の鎖」は、神が創り給うた世界の構造のなかにヒエラルヒーを確立し、それによって社会の階級的関係を異議申し立てから保護した。この地平の下では、小作農たちは考えうる唯一の権力の源泉である王の名において反逆した。合理化はわれわれの現代の地平である。そして、技術の設計は、現代のヘゲモニーの基礎として、この合理化の効力の鍵をなす。

 技術の発展は、経済学、イデオロギー、宗教、および伝統に由来する文化規範によって拘束される。前の箇所で、労働力の年齢構成に関する仮定がいかにして十九世紀の生産技術の設計に入り込むかについて議論した。そうした仮定はきわめて自然でまた明白であって、そのためしばしば意識の閾値の下にある。

 これがウェーバーに対するヘルベルト・マルクーゼの重要な批判の要点である16。マルクーゼは、合理化の概念において技術による自然支配と管理による労働支配が混同されていることを明らかにする。自然支配に対する探求が一般的なものであるのに対し、管理は特定の社会背景、つまり資本主義の賃金システムに対してのみ生じる。かつての農場労働や技能労働の形態とは異なり、賃金が本質的に企業収益と連関しないため、労働者は資本主義システムにおける生産物に直接的な利害関心をもたない。まさにこの文脈で、人間の支配が重要になるのである。

 結局、支配の機能の一部は、機械化をつうじて、人間による監視と分業化された労働実践から機械へと移される。このように機械の設計は社会に相対的である。それはウェーバーがけっして認めなかったことである。そして、そこに体現される「技術的合理性」は普遍的なものではなく、資本主義に特殊なものである。実際、上からの管理がなされているかぎり、共産主義社会であろうと資本主義社会であろうと、この合理性は既存のすべての産業社会の地平なのである。(後の節では、私が「技術コード」と呼んでいるものによって、このアプローチのより一般的な応用について論議される。)

 もしマルクーゼのいうことが正しいとすれば、すでにハリー・ブレーブマンやディビッド・ノーベルといった労働過程に関するマルクス主義の研究者が実際に指摘しているように17、まさに生産技術の設計において階級関係の影響をたしかめることができるはずである。組立ラインは、脱熟練や一定テンポによる労働といった伝統的な管理の目標を技術的な設計をつうじて達成しており、そのためとくに明らかな例を与えてくれている。組立ラインにみられる技術的に強制された労働規律は、支配の増大をつうじて生産性と利益を増大させている。しかし、組立ラインは特定の社会的文脈における技術的進歩として出現するだけである。それは、労働規律を上から押しつけるのではなく、それを自分から課すような労働者協同組合をもとにした経済においては、進歩とは考えられないのである。そうした社会では、異なった技術的合理性によって、異なった方法による生産性の増大が命ぜられることであろう18

 この例は、技術的合理性がたんに信念、ないしイデオロギーであるばかりではなく、機械の構造に効果的に組み込まれていることを示している。機械の設計は、合理性という一般に広まった考えのうちではたらいている社会的な要因を反映している。近代技術の社会的相対性に関する議論がマルクス主義の文脈に端を発しているという事実によって、もっとも根本的な意味が覆い隠されている。われわれはここではたんなる財産システムに関する批判を扱うものではない。むしろこの批判が及ぶ範囲を広げて、技術的な「土台」にまで拡張してきた。このアプローチは、われわれは資本主義と社会主義、市場と計画という旧来の経済的な区別を乗りこえる。その代わりに、権力が社会活動の技術的媒介にもとづいている社会と、技術的な支配とそれに対応して技術的な設計を民主的なものにする社会というまったく異なった区別に到達するのである。

八、二面性理論

 ここまでの議論は、社会的意味と機能的合理性が緊密に絡まりあって技術の次元をなしているという主張に要約されるかもしれない。この二つは存在論的に、例えば観察者の心にある意味と技術そのものにおける合理性というように、区別されるわけではない。むしろそれらは同じ根本的な技術的対象の「二つの面」であり、それぞれの面は特定の仕方で文脈化することによって示されるのである。

 科学的=技術的合理性一般と同様に、機能的合理性は対象をもともとの状況から分離し、理論的あるいは機能的システムに組み込む。実験室や研究センターのようなこの手続きを支える制度は、自分の実践に関わる特別な文脈を自ら形成し、様々な社会的な主体や権力との連関を形づくる。脱文脈化のはたらきが社会的関心を反映した社会的活動として把握されないとき、「純粋な」合理性という観念が生れるのである。

 技術は、こうした関心によって多くの可能な配置の中から選択される。選択のプロセスを導いているのは社会的コードである。それは技術が生まれる地平を定義づける文化的、政治的闘争によって確立される。いったん技術が導入されると、それは前もって自らを形づくった文化的地平を確認するための材料を提供する。私は、これを技術の「バイアス」と呼んでいる。つまり中立で機能的な合理性は、明らかにヘゲモニーから支持をえている。社会がより多くの技術を用いるならば、この支持はより重要なものになる。

 フーコーが「権力/知」の理論において主張しているように、現代の抑圧の形態は、間違ったイデオロギーにもとづいているのみではなく、支配的ヘゲモニーの基礎の形成とその再生産とをおこなう特別の技術的「真理」にもとづいている19。そして、「真理」の選択の偶然性が隠されたままであるかぎり、技術的に正当化された社会秩序という決定論的なイメージが映し出されるのである。

 技術による正当化の効果は、設計の際の無意識の文化的・政治的地平に依存している。技術を再文脈化するような批判は、そうした地平の覆いを取り去って、技術的必要性という幻想を脱神話化し、そして一般に行われている技術的な選択の相対性をあばきだすことができる。

九、効率性の社会的相対性

 こうした問題は、今日、環境運動のなかで特別な力をもって現れている。多くの環境保護主義者は、自然を保護し、その過程で人間の生命をも改善するような技術的変化に、賛成の意を表している。そうした変化は、長い目でみれば、技術がもたらす有害でコストがかかる副作用を減少させることにより、効率を高めている。しかし、資本主義社会においてこのプログラムを課することはきわめて困難である。技術的プロセスから製品や人々に、さらに事前の防止から事後的な後かたづけに批判の目をそらせようとする傾向が存在している。これらのより好まれる戦略は、一般にコストがかかり、所与の技術的地平のもとでの効率を低下させる。この状況は政治的帰結をもっている。

 ダメージが加えられたあとで環境をもとに戻すようなあり方は、税金や割高な価格によって資金調達をするという仕方での集団的な消費の形態である。こうしたアプローチが人々の意識で支配的になっている。このようなわけで、環境保護主義は、一般に全体的な効率性を増大させる合理化としてではなく、トレードオフを含んだコストとして認識されるのである。しかし、経済的幸福に取りつかれた現代社会において、この認識は破滅的なものである。経済学者やビジネスマンは、インフレーションと失業のなかでマモン神の聖地の代わりに自然という祭壇での礼拝のために支払わなければならない費用のことを説明することが好きである。社会的、政治的期待を技術に順応させようとしない人々を待ち受けているのは貧困であるというわけである。

 こうしたトレードオフ・モデルは、戦略を求める環境保護主義者たちを、頼りにならないものにすがる気にさせることになる。信心深い希望をいだく人たちは、人々は産業社会でさまざまな問題が生起するのに直面して、経済的価値から精神的価値に心を改めるだろうと期待している。また、貪欲な民衆が押しつけをいやがろうとも、啓蒙的な独裁者が技術的な改革を強制するのが当然だとする人もいる。これらの解決のどちらがよりありそうにもないかをきめるのは難しいことであるが、いずれにせよ基本的な民主主義の価値とは両立しない20

 トレードオフ・モデルは、環境的に健全な技術vs.繁栄、労働者の満足と支配vs.生産性というジレンマをつきつける。そこで必要なのは統合なのである。近代の産業主義の問題を解決するに当たって、公共の福祉の改善とともに、大衆の支持が勝ちとられるのでなければ、これらが今後解決される望みはうすい。だが、技術的な改革にともなってさまざまの新たな制約が経済に課せられるならば、こうした改革と繁栄が折り合うことなどいったい可能なのであろうか。

 児童労働の事例は、文化的変化の境界で、とくに主要な技術の社会的定義が変わり目にあるとき、明らかなジレンマが生じるさまを教えてくれている。こうした状況下で、もともとの設計のネットワークから排除されていた社会集団は、これまで表現する機会のなかった彼らの利害関心を政治的に表現する。彼ら外部の人間が自分たちの福祉を向上させると信じている新しい価値は、既存の設計によって適切な表現の機会を得ている内部の人間にとってはたんなるイデオロギーにすぎないように思われるのである。

 これは捉え方の違いであって、本質の違いではない。だが、大きな社会的変化が技術に影響を及ぼすたびに、これが本質的な対立であるという幻想が甦ってくる。はじめは、新しい集団の要求を事後的に満たすことにははっきりとコストがともなっており、それがぎこちないされ方をするときには、よりよい設計が見つかるまで実際に効率は低下する。しかし、通常よりよい設計は発見されうるし、成長に対する克服しがたい障害と思われたものは技術的な変化のまえに解消してしまう。

 こうした状況は、経済的な交換と技術との本質的な違いを示している。トレードオフを考えているかぎり、交換がすべてである。つまり、Aの増大がBの減少を意味する。しかし、技術の進歩は、一度にいくつかの変数を最適化するエレガントな設計をすることで、まさにそうしたジレンマを避けることを目標にしている。つまり、一つの巧妙に考え出されたメカニズムは、多くの異なる社会的な要求に応えることができ、一つの構造が多くの機能に対応するのである21。設計は経済のゼロ−サム・ゲームではない。それは、効率の犠牲を必然的にともなうものではなく、価値と社会集団の多様性に奉仕する両義性をもった文化的プロセスなのである。

十、技術コード

 技術に対する社会的コントロールをめぐってこうした対立が生じることは、目新しいことではない。このことは「ボイラーの爆発」という興味ぶかい事例によって理解することができる22。汽船のボイラーは、はじめてアメリカ政府によって安全規則が命じられた技術である。最初に規則の提案がなされた1816年から実際に施行された1852年にいたるまで、何百もの蒸気船爆発で5000人以上が死傷した。この犠牲者は多数なのだろうか、それとも少数なのだろうか。犠牲者の数がたえず増加しているにもかかわらず、明らかに消費者はあまり警戒することなく、船で旅行し続けていた。もちろん、船の所有者はこれを信頼に対する投票と解釈し、安全設計にかかる過大なコストに抗議した。しかし、政治家の方は安全性を要求することによって票を得ていたのである。

 技術的改良の命令が下されると、事故率はすぐに劇的に低下した。もし技術に決定されるものだとしたら、法律の制定はこの結果をもたらすためにほとんど必要でなかったことになろう。しかし、実際には、ボイラーの設計は安全に関する社会的判断に関連している。その判断は、船荷主が望んだというまさに市場的な理由でなされる可能性もあるし、政治的決定にもとづいて異なった技術的結果をもたらす可能性もあった。いずれの場合でも、それらの結果によって適当なボイラーが形成される。このように、ボイラーがなんで「ある」かは長い政治闘争のプロセスをへて定義され、最終的にはアメリカ機械学会によって定められた統一コードに蓄積されることになった。

 この例によって、技術がまさにどのように社会的変化に適応するかが示されている。このプロセスは、私が対象の「技術コード」と呼ぶものによって媒介されている。このコードは、技術的設計のレベルで社会の文化的地平に応答している。材料の選択や処理のようなきわめて実際的な技術的なパラメータは、このコードによって社会的に指定される。少なくともボイラーの例では、このコードはこうして文字通り鉄の中に埋め込まれるのであり、まさにこの事実から技術的必然性という幻想が生まれてくるのである23

 規制に反対する立場をとる保守派の社会哲学は、この幻想に依拠している。彼らは、設計のプロセスにはつねに安全や環境との共存といった基準がすでに組み込まれていることを閑却にしている。これと同じように、すべての技術は、ある基礎的なレベルでユーザーや労働者のイニシアティブの土台となっている。適切に製造された技術的対象は、それとして認められるためには、明らかにこれらの基準に合致していなければならない。技術の適合性は高価な付加価値として扱われるのではなく、本来的な生産コストとみなされる。基準を上げるということは、対象の定義を変えることを意味している。それは、トレードオフ・モデルが考えているように、代替的な価値やイデオロギー的価値に対して費用を支払うことを意味するのではないのである。

 しかし、環境法や他の同様の法律によって命令されるような設計変化について、よく論議されるコスト/ベネフィットの比はどうであろうか。こうした計算は、新しい価値に応答して技術が進歩し、問題の条件が根本的に変わるまえならば、過渡期の状況に対してある程度は適用することができる。しかし、例えば一日のマス釣りや喘息の発作のようなものをとってみれば、経済学者たちによる金銭的価値の評価は非常にラフであり、そしてこうしたラフな評価に計算結果が依存していることがあまりにも多い。これらの評価は、もし偏見なしに作られるなら、おそらく政策上の選択肢の優先順位をつける上での手助けになるはずである。しかし、こうした政策的な応用から正当に一般化して、規制のコストに関する一般理論を導き出すことは不可能である。

 こうした効率フェティシズムでは、効率の概念に関する日常的理解のみが社会的意思決定と関連しているにもかかわらず、それが無視されてしまっている。この日常的感覚では、効率は、ルーティン的に影響を受けている狭い範囲の価値と経済的行為者の決定をつうじて関わっている。技術における問題の生じていない面は、勘定に入れられていない。技術的対象を分解し、安全であれ、速度であれ、信頼性その他であれ、その対象が適合している目標に関して、要素をいちいち説明してみせることが、理論上は可能である。しかし、実際には、「ブラック・ボックス」を開いて、内部に何があるかを見ることに関心をもつ人はだれもいないのである。

 例えば、ボイラー・コードがいったん確立すると、壁の厚さや安全弁の設計などは、対象にとって本質的なものとして現れる。これらの特徴にかかるコストが、安全性のための特別の「対価」として取り出されることはないし、またより効率的だが安全性がより低いバージョンの技術との不利な比較をさせられることはない。コスト削減のためにコード破りをすることは、トレード・オフではなく、犯罪である。そして、次の進歩はすべからく新たな安全性基準を基礎になされるため、古きよき日のより安価で、安全でない設計のことなど、すぐにだれも顧みなくなるのである。

 設計の基準は、流動的な時期にあるあいだだけ、論争的である。技術をめぐる意見の対立は、解決の後はすばやく忘れ去られる。こうした意見対立の結果として生まれる様々な雑然とした自明な技術的かつ合法的な基準は、安定したコードに体現され、経済的行為者が効率を追求して環境における不安定な部分を操作する際の背景を形づくる。コードは現実の世界経済の計算のなかでは変化せず、固定したインプットとして扱われる。

 人々が新しいコードの安定化を期待して、新たな効率計算地平が出現するとすぐに沈静化してしまう現在の議論を無視するということがしばしばおこりうる。ボイラーの設計や児童労働において起こったのは、まさにこうしたことなのである。おそらくは環境保護主義に関する現在の論争は、同様の歴史をたどるであろう。そして、よりきれいな空気を求めることに対して、技術の命法を破る「間違った人間性の原則」だといって反対する人々は、いつしか嘲笑を受けることになるであろう。

 技術コードにおいて、非経済的価値は経済と交錯している。ここで扱っている例は、この点を明らかにしている。労働者の経済活動を規制している法的な標準は、彼らの生活のあらゆる面に重要な影響を与えている。児童労働のケースでは、規制は本来は非経済的な性格の結果をもたらし、教育の機会を広める上での手助けとなった。船のケースにおいては、アメリカ人は徐々に安全の高いレベルを選ぶようになり、ボイラーの設計はこの選択を反映するようになった。結局、これはある利益と別の利益のトレードオフではなく、人間の生命の価値と政府の責任に関する非経済的な決定だったのである。

 このように、技術は目的のためのたんなる手段ではない。技術的設計のスタンダードは、例えば都市空間や建築空間、職場、医療活動やその期待、生活パターン、その他さまざまな社会環境の大部分を定義している。技術的変化のもつ経済的意義は、生活様式を形づくっているより広範な人間的意味に比べ、しばしば見劣りするものである。そうした場合、規制は経済文化的枠組みを定義する。それは経済内的行為ではないのである。

十一、ハイデガーの技術の「本質」

 ここで述べてきた理論は、技術についての全般的な改良の可能性を提案するものである。しかし、ディストピア論の立場をとる批判者は、効率あるいは技術的効果の追求という事実がまさに、すでに人間と自然に対する容認しがたい暴力の行使であるといって反対する。普遍的な機能化は、ありとあらゆるものの統合性を破壊する。ハイデガーが主張するように、「存在」とのさまざまな関わりのとりまとめとしてそれ自身のために敬意をもった扱い方がなされる「もの」の世界に、たんなる資源からなる「無対象な」世界が、取って代わる、というわけである24

 近代の技術が今日の世界を実際に危険にさらしているということが、この批判に説得力を与えている。しかし、ハイデガーによるライン川のダムとギリシアの聖餐杯の有名な対比には、私は疑念を抱いている。これほどまでに特定の傾向性をおびた比較を見いだすことは、おそらく困難であろう。もちろん、近代の技術は他のいかなる技術より破壊的である。ハイデガーは、実際には手段は中立的なものではなく、手段の自存的な内容は、奉仕する目標とは独立に社会に対して影響を及ぼすと主張する。このことは正しい。しかし、この論文で主張してきたように、本質的にこの内容が破壊的なわけではなく、むしろ問題なのは設計であり社会への組み入れなのである。

 しかし、ハイデガーは、たんなる技術社会の病に関する社会診断はいっさい拒否する。問題の源泉は少くともプラトンにさかのぼる。そして、現代社会は西洋の形而上学に始めから内在しているテロスを実現しているにすぎないと、ハイデガーは主張する。彼が独創的なのは、存在を支配するという野望はそれ自身が一つの存在のあり方なのであり、したがって人間の支配を越えた存在論的な統治に、より深いレベルにおいて従属するものだという指摘をしていることである。しかし、彼の批判は、全体的にみて、少なくとも近代における人間的主体性に向けられた非難と、さまざまなタイプの技術的な発展の相互の本質的な違いの混同をもたらしている。

 ハイデガーは、彼がいう技術に対する「自由な関係」の達成によってのみ叙述しうる技術の存在論的な問題と、技術それ自身の変革を願う改革者によって提案されたたんに存在的な解決とを区別している。この区別はかつては今日におけるより、いっそう意義深いものに思えたのかもしれない。しかし、要するに、ハイデガーはまったく同一の技術的世界に対する態度変更以外のことは求めていないのである。それは悪しき意味での観念論的解決であり、環境運動の世代にとっては決定的に論駁するべきものと映るものであろう。

 通常、ハイデガーを擁護する人たちは、この議論をまえにして、彼の技術批判はたんに人間の態度にではなく、存在が自らを顕わにするあり方に関係するのだと指摘する。ハイデガーの言い回しをあらっぽく翻訳するならば、このことは近代世界における技術的形式が、例えば中世世界における宗教的形式と、いくらか似た意味をもっていることを意味している。もはや形式は態度の問題ではない。それは固有の物質的生活を呈するのである。発電所はわれわれの時代のゴシック大聖堂なのだ。こうしたハイデガーの思想の解釈は、彼が技術の改良に基準を与えてくれるのでないかという期待をもたせるものである。例えば、自然の力を貯蔵し、蓄積させるという近代の技術の傾向に対する彼の分析は、プロメテウスのような仕方で自然を挑発しないもう一つの技術が優れていることを示唆している。

 しかし残念ながら、ハイデガーの議論は、まさに電気と原爆、農業技術とホロコーストの区別ができない、高度に抽象的なレベルで展開されている。1949年の講義で、彼は「現在、農業は機械化された食糧産業であり、本質においてガス室や絶滅キャンプにおける死体の製造と同じものであり、国家の封鎖や飢餓と同じであり、水爆の製造と同じものである」と主張している25。すべては同一の立て組み(Gestell)ということに対する異なった表現なのであり、この立て組みは存在に対するより深い関係の回復によって超越されるといわれるのである。そして、ハイデガーは技術の後退を拒否するが、他方で、よりよい技術の未来への余地は残していない。それゆえ、たんなる態度の変化を越えたいかなる関係が存するのかを理解することは困難なのである。

十二、形而上学の歴史

 ハイデガーは、技術的活動が最近まで、彼のいう意味で「形而上学的」でなかったということを非常によく分かっている。したがって、実際には近代の技術にはすべてのそれ以前の技術的形式との結び付きや連続性があるにもかかわらず、彼はこの点を曖昧にし、両者をきっぱりと区別しなければならないのである。これに対して私は、近代の技術の新しさは、発展の背景にある伝統的な技術的世界と照らし合わせることによってのみ、理解することができると主張する。さらに、近代の技術のもつ潜在力は、技術のある種の伝統的特徴を取り戻すことで、はじめて保たれるのである。おそらくこれらのことが、近代の技術を独特の現象とみなす理論が上述のような悲観主義的な結論に至る理由であろう。

 近代の技術はそれ以前の技術的実践と質的に異なっているわけではなく、その違いは強調点の相違というべきである。ただし、その強調点の違いはかなり大きい。例えば、対象の素材への還元、正確な測定や計画の使用、他者による何らかの人間の技術的支配、大規模な操作など、前例が見当たらないものは何もない。これに対して、近代技術の新しさは、これらの特徴が一点に集まっているところにあり、そして当然ながら、こうした集中がもたらす結果は実際に先例がないものである。

 技術に関するより広い図式によって、いったい何が見えてくるのだろうか。近代技術がもつ特権的な次元は、現在では副次的なものであるがかつてはその技術を定義していた多くの特徴が含まれるより広い文脈のなかで現れることになる。例えば、テイラー主義が一般的なものになる以前には、技術的生活は本質的に職業選択と関係していた。技術は、生活様式、独特な形での個人の発展、美徳などと関連していた。資本主義による脱熟練の成功によってはじめて、こうした技術がもつ人間的次元は最終的にマージナルな現象に還元されることになったのである。

 同じように、技術的支配という新しい形式によって、近代的な管理はギルドにおける伝統的な同僚間の関係に置き換わった。仕事において職業的に身についたものがある種の例外的な環境で継続しているのと同じように、同僚関係は数少ない専門的、あるいは協同的な仕事場において生き残る。数多くの歴史研究によって、これらの過去の形式は資本主義の経済学とともに、技術の「本質」とも相容れないことが示されている。もし異なった社会的文脈では異なった技術的発展の道が与えられるとすれば、これらの伝統的な技術的価値や組織形態は、近代の技術社会の将来の発展において、新しい方法で回復できるかもしれない。

 あらゆる社会において、技術は道具製作や道具使用の周辺に、相互に連関する様々な活動が結晶してできた精巧な複合体である。例えば技術の伝達や技術がもたらす自然的結果の管理といった問題は、本質的に技術それ自体の外部にあるのではなく、技術の次元をなすものなのである。技術がもつこうした面を極小化することは、近代社会において好都合なことである。それはやはり技術を社会的要求に適合させる方法の一つなのであり、あらかじめ存在する「本質」の顕れなどではないのである。そもそも技術の本質について語ることが意味のあるものであるとするならば、そのかぎりで、それはこうした語りがわれわれの社会のもとでエスノロジカルに特権化された二、三の特徴だけではなく、歴史研究で明らかにされるすべての領域を包括しなければならないのである。

 ハイデガーは、あるテキストのなかで、水差しが、製作され、機能している文脈を「集めている」ことを興味深い仕方で示している。このイメージは技術に適用されてもよかったであろう。そして実際、ハイデガーがハイウェイの橋梁についてそのような解釈をしている短い一節がある。しかし、水差しや聖餐杯よりたしかにロマンチックな情感に乏しいかもしれないが、近代技術が複数の文脈を「集める」ことができない理由は存在しない。近代技術は、実際、環境からみて健全な技術、人間の自由と尊厳を考慮に入れた医療技術の応用、人間が生きる空間をつくる都市の設計、労働者の健康を保護し、彼らの知性の範囲を与える生産方法などに対する現代の要求を解釈する一つの方法なのである。もしこうした要求によって、近代技術を再構成し、技術に対する自然で人間的で社会的な環境をたんなる資源に還元するのではなく、むしろ技術がそれ自身により広い範囲の文脈を集めるようにすることが要求されるのでないとすれば、この要求はいったい何なのであろうか。

 ハイデガーは、近代技術を、社会と乖離したもの、純粋な権力を目指す本来的に文脈のない力であるとして物象化していたため、これらのオルターナティブをまじめに受け取ろうとしなかった。これが技術の「本質」であるとすれば、変革はたんに外面的なものであるに過ぎないであろう。しかし、この点でハイデガーの立場は、彼が退けたプロメテウス主義にまさに接近している。この両者は技術についての狭い定義に依拠している。それは、少なくともベーコンとデカルト以来、世界を支配するという運命を強調し、文脈に組み入れられているという等しく本質的な事柄を除外している。私は、この定義は近代技術が最初に発達した資本主義の環境を反映したものだと考えている。

 近代における典型的な技術の支配者は、もっぱら生産と利益に全力を集中する事業家である。企業は、伝統的に人に対して求められるさまざまな責任を欠き、過去の技術力と見合った場所を欠いた、まさに根本的に脱文脈化された行動基盤なのである。企業の自律こそ、意図された結果と意図されていない結果、目標と文脈的効果をきっぱりと区別し、後者を無視することを可能にするものなのである。

 近代の技術が狭い焦点のものであることは、特別なヘゲモニーのニーズに応じたものである。それは形而上学的な条件ではない。こうしたヘゲモニーのもとで、技術的な設計は異常な仕方で脱文脈化され、また破壊的なものになっている。今日、技術的な手段が生命にとってますます脅威となる環境を形づくっているとの指摘を行う際、技術それ自身にではなく、このヘゲモニーにこそ責任が求められるのである。技術に体現されたこのヘゲモニーこそ、技術の変革のための闘争において挑戦を受けなければならないものなのである。

十三、民主的な合理化

 進歩に対する信仰は、何世代にもわたり、二つの広く支持された信念によって支えられてきた。つまり、技術的必要性が発展の道を指図するという信仰と、効率の追求によってこの道を同定するための基礎が提供されるという信仰である。私はこの論文で、こうした信念が両方とも間違っていると主張した。そればかりではない。それらは産業社会の制度に参加する機会の制限を正当化するために用いられるイデオロギーなのである。私は、より広範な価値を支えることができる新しい類型の技術社会を達成することができると結論づける。民主主義は、設計し直された産業主義においてよりよく奉仕されうると思われる主要な価値の一つである。

 技術の民主化とはどんな意味なのだろうか。そもそも、法的権利の一つが問題なのでなく、イニシアティブと参加が問題なのだ。法的形式は、当初はインフォーマルなかたちで主張される要求を、徐々に慣例化するかもしれない。しかし、この形式は技術に特有のヘゲモニーに抵抗する個人の経験とニーズから生じるのでないならば、空疎なままなのである。

 原子力発電所における健康と安全に対する組合闘争から、有毒な廃物の処理に対するコミュニティの闘争、生殖技術の規制に対する政治的な要求にいたるまで、抵抗には数多くの形態がある。これらの運動は、技術の外にあるものを考慮に入れる必要性について人々に警鐘を鳴らし、こうして明かされる拡大された文脈に応えて設計を変更するように要求する。

 こうした技術論争は、公の「技術アセスメント」のためのパラメーターを人々の前に広げて見せるものとして、現在の市民生活における避けがたい特徴の一つになってきている26。それらは、社会生活の技術的背景を包括する新たな公共圏や、「自然」に生じる原因不明のコスト──つまり利益追求の過程で活用できる何らかの人や物──を内に取り込む新たな合理化の様式の創造を前もって示しているものなのである。ここでは、自然に対する尊敬は、技術に敵対的ではなく、長い目で見て効率を改良するのである。

 これらの論争がありふれたものになるにつれ、それにともなって驚くような新しい形態の抵抗と新しい種類の要求が生まれた。ネットワーキングによって、技術の変革を求める数多くの大衆的反応の一つが、生み出されたのである。新たな種類の技術的ネットワークに組み込まれたさまざまな個人は、それを支配する権力に影響を及ぼすために、ネットそれ自身をとおして抵抗することをおぼえたのである。それは富や行政権力を求める闘いではなく、技術的実践、手続き、そして日常生活を組み立てている設計を打倒するための闘争なのである。

 ミニテルの例はこの新しいアプローチのモデルになりうる。フランスでは、政府によって一般大衆に高度に合理的な情報システムを紹介する企てがなされると、ただちにコンピュータが政治化されたのである。ユーザーたちは自分たちが組み入れられたネットワークを「ハッキング」した。彼らはもともと中央集権的な情報分配のみが計画されていたところに、巨大な規模の人間的コミュニケーションを導入し、その機能の仕方を変化させたのである。

 この事例とAIDS患者たちの運動との比較は得るものが大きい27。コンピュータの合理的な概念にはコミュニケーションの可能性を妨げる傾向がみられたが、これと同様に、医療においては、治療それ自体はもっぱら技術的用語のみで理解され、ケアの機能はたんなる副次的なものになってきている。患者はこうした治療技術の対象になり、医者の管理に多かれ少なかれ「従順に」なるのだ。このシステムは、何千人もの不治のAIDS患者が編入されたことで、安定性を失い、新たな挑戦にさらされたのである。

 鍵になったのは、実験的処置へのアクセスの問題であった。要するに、高度に技術化された医療システムにおいては、臨床的研究はまだ治療のできない人々に対する一つのケアの仕方と考えることができるのである。だが、患者の福祉に対するパターナリズム的な気遣いのせいで、医学的実験への入り口には、ごく最近まで厳しい制限がなされてきた。AIDS患者たちは入り口を開かせることができた。それは、最初にこの病気が診断された時点ですでに、患者の感染ネットワークと平行して、ゲイの権利をめぐる社会的ネットワークがさかんになっていためである。

 AIDS患者たちは、技術的実践の対象として医療に個人的に参加するのでなく、代わりに、医療に対して集団としてまた政治的に挑戦したのである。患者たちは医療システムを「ハッキング」し、それを新しい目的に向かわせた。患者たちの闘争は、医療における官僚的組織への対抗傾向を表すものである。それは医療における象徴的次元とケアの機能を回復する試みを表しているのだ。

 この挑戦を従来の政治の概念によってどのように評価するかは明白ではない。それはミニテルの場合と同じである。また、今日資本主義のモダニズムと騒々しい闘いを繰り広げている対抗イデオロギーの目から見るならば、技術社会における無言の成長に対抗するこうした微細な闘争は、重要なものとは思われない。しかし、これらの運動に表現されたコミュニケーションへの要求はきわめて根本的なものであり、それゆえわれわれの政治の概念が技術の時代に適合性もつかどうかの試金石になりうるのである。

 環境運動と同じように、こうした抵抗はいまの技術の設計のもとにある合理性の地平に対する挑戦である。われわれの社会における合理化は、利益と権力という目標のための手段という、技術に関する特定の定義に対応するものである。技術に対するより幅広い理解は、人間的で自然的な文脈に対して技術的活動が責任をはたすという、まったく異なった合理化の概念を提案する。私はこれを「民主的な合理化」を呼んでいる。それは、この合理化が要求する技術的進歩がいま勢力のあるヘゲモニーとはただ反対の仕方によってのみなされるからである。この民主的な合理化は、現在進行中のテクノクラシーの勝利の賛美と、技術文化の厄災から「神のみがわれわれを救いうる」というハイデガーによるこれに反対する暗い要求の、両方に対するオルターナティブを表しているのである28

 このような意味での民主的な合理化は社会主義的であろうか。技術に関するこの新たな討論事項と古い社会主義思想との結合について、議論の余地があることはたしかである。私はここに大きな連続性があると考えている。社会主義理論において、労働者の生命と尊厳は、近代の技術で無視されたより広い文脈を意味していた。労働現場における労働者の精神と肉体の破壊は、資本主義の技術的な設計がもたらした付随的な結果と考えられた。社会主義社会では異なった文化的地平の下でまったく異なった技術が設計されるかもしれないという含みは、おそらくたんなるリップサービスだったでのであろう。しかし、このことは少くとも目標として定式化されたものだったのである。

 これとよく似た議論は、今日、より広い文脈にわたって、より多様な制度的な設定において、より切迫した状況で行うことができる。私はこの立場を社会主義と呼びたいと思う。そして、失敗に終わった共産主義の実験によって投げかけられた社会主義のイメージに代えて、いつしかこの立場が置き換わることができることを願っている。

 こうした言葉に関する問題よりさらに重要なことは、これまで検討してきた実質的な点である。一世紀の闘争にもかかわらず、なぜ民主主義は技術に媒介された社会生活の領域にまで広まってこなかったのだろうか。それは技術が民主主義を排除するからであろうか。それとも、技術が民主主義を抑圧するために用いられてきたからだろうか。議論の重心は第二の結論を支持する。技術が支えることができるのは一種類の技術的な文明にかぎられるのではない。そして、いつか技術は現在よりいっそう民主的な社会に組み込まれるかもしれないのである。

1. この論文は私の著書 Critical Theory of Technology (New York: Oxford University Press, 1991), delivered at the American Philosophical Association, Dec. 28, 1991, and first published in an earlier version in Inquiry 35: 3 / 4, 1992.〔藤本正文訳『技術 クリティカル・セオリー』法政大学出版局 1995年〕 で発表した考えを拡充したものである。

2. 例えば、Joshua Cohen and Joel Rogers, On Democracy: Toward a Transformation of American Society (Harmondsworth, England: Penguin, 1983); Frank Cunningham, Democratic Theory and Socialism (Cambridge Univ. Press, 1987). 参照。

3. Max Weber, The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism, T. Parsons, trans. (New York: Scribners, 1958), pp. 181-82. 大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』改訳 岩波文庫 1989年〕。

4. Martin Heidegger, The Question Concerning Technology, W. Lovitt, trans. (New York: Harper and Row, 1977);小島威彦、アルムブルスター訳『技術論』理想社 1965〕Jacques Ellul, The Technological Society, J. Wilkinson, trans. (New York: Vintage, 1964) 〔島尾永康,、竹岡敬温訳『技術社会』すぐ書房 (エリュール著作集1-2)  1975-76.

5. Richard W. Miller, Analyzing Marx: Morality, Power and History (Princeton: Princeton Univ. Press, 1984), pp. 188-195.

6. Karl Marx, Capital (New York: Modern Library, 1906), p. 13. 例えば、長谷部文雄訳『資本論』青木書店 1954〕

7.例えば、 David Bloor, Knowledge and Social Imagery (Chicago: Univ. of Chicago Press, 1991), pp. 175-79.〔佐々木力、古川安訳『数学の社会学─知識と社会表象』培風館 1985〕を参照。構成主義についての一般的な説明は、 Bruno Latour, Science in Action (Cambridge, Mass.: Harvard Univ. Press, 1987.) 川崎勝、高田紀代志訳『科学が作られているとき─人類学的考察 』産業図書 1999年)参照。

8. Trevor Pinch and Wiebe Bijker, "The Social Construction of Facts and Artefacts: or How the Sociology of Science and the Sociology of Technology Might Benefit Each Other," Social Studies of Science, no. 14, 1984.

9. Langdon Winnerは、構成主義が独特の仕方で立場を限定していることに手厳しい批判を行っている。彼の"Upon Opening the Black Box and Finding it Empty: Social Constructivism and the Philosophy of Technology," The Technology of Discovery and the Discovery of Technology: Proceedings of the Sixth International Conference of the Society for Philosophy and Technology (Blacksburg, Va.: The Society for Philosophy and Technology, 1991). と題された論文を参照。

10. Hansard's Debates, Third Series: Parliamentary Debates 1830-1891, vol. LXXIII, 1844 (Feb. 22-Apr. 22), pp. 1123 and 1120.

11. 技術の解釈学の発展に役立つ出発点は、Paul Ricoeur "The Model of the Text: Meaningful Action Considered as a Text," P. Rabinow and W. Sullivan, eds., Interpretive Social Science: A Reader (Berkeley: Univ. of California, Press, 1979).に提供されている。

12. Michel de Certeau は、「技術のレトリック」という言葉を、技術を文脈化して、社会的意味を与えるような表現なり実践なりを指示するために用いている。「レトリック」という言葉をDe Certeauが選んだのは、意味がたんに手近に居合わせているものではなく、技術が再現する含意を研究することによって表現されることができるような内容を伝えるものだからである。Traverse, no. 26, Oct. 1982, entitled Les Rhetoriques de la Technologie, and, in that issue, especially Marc Guillaume's article, Telespectres, pp. 22-23. 参照。

13. Andrew Feenberg, "From Information to Communication: The French Experience with Videotex," Martin Lea, ed., The Social Contexts of Computer Mediated Communication (London: Harvester-Wheatsheaf, 1992).

14. Jean-Francois Lyotard, La Condition Postmoderne (Paris: Editions de Minuit, 1979), p. 34. 〔小林康夫『ポスト・モダンの条件─知・社会・言語ゲーム』書肆風の薔薇 1986〕

15. この概念(しかし、著者はドクサとよぶが)にもとづく社会理論へのアプローチは、Pierre Bourdieu, Outline of a Theory of Practice, R. Nice, trans. (Cambridge: Cambridge Univ. Press, 1977), pp. 164-70. 参照。

16. Herbert Marcuse, "Industrialization and Capitalism in the Work of Marx Weber," in Negations, trans. J. Shapiro, (Boston: Beacon, 1968).

17. Harry Braverman, Labor and Monopoly Capital (New York: Monthly Review, 1974); David Noble, Forces of Production (New York: Oxford University Press, 1984).

18. Bernard Gendron and Nancy Holstrom, "Marx, Machinery and Alienation," Research in Philosophy and Technology, vol. 2, 1979.

19. この点に関してのフーコーのもっとも説得的な議論としては、 Surveiller et Punir (Paris: Gallimard, 1975)〔田村俶訳『監獄の誕生 : 監視と処罰』新潮社 1977.

20. 例えば、Robert Heilbroner, An Inquiry into the Human Prospect (New York: Norton, 1975)を参照。いくつかのもっとも早い時期に整理されたかたちにおけるこれらの論点に関する批評としては、Andrew Feenberg, "Beyond the Politics of Survival," Theory and Society, no. 7, 1979. 参照。

21. 技術のこうした側面は「具体化」とよばれるが、これについては、Gilbert Simondon, Du Mode d'Existence des Objets Techniques (Paris: Aubier, 1958), chap. 1. において説明がなされている。

22. John G. Burke, "Bursting Boilers and the Federal Power," M. Kranzberg and W. Davenport, eds. Technology and Culture (New York: New American Library, 1972).

23. 技術コードは、設計や工学の段階における支配的な社会集団の「立場」を表現している。このように、このコードは社会的立場に相対的であり、ついでにいえばそれはたんなるイデオロギーや心理的性向であるというわけでなくにである。この論文の最終節で主張されることになるが、社会−技術的変化は、技術システム内部で支配的な立場に従属する立場から生じることができる。立場の概念について認識論的に立ち入ったことは、Sandra Harding, Whose Science? Whose Knowledge? (Ithaca: Cornell Univ. Press, 1991). 参照。

24. ここで議論されたハイデガーのテキストは、順に、"The Question Concerning Technology," op. cit.; "The Thing," and "Building Dwelling Thinking" in Poetry, Language, Thought, A. Hofstadter, trans. (New York: Harper & Row, 1971). である。

25. Quoted in T. Rockmore, On Heidegger's Nazism and Philosophy (Berkeley: University of California Press, 1992), p. 241.奥谷浩一 ほか 訳『ハイデガー哲学とナチズム』北海道大学図書刊行会 1999

26. Alberto Cambrosio and Camille Limoges, "Controversies as Governing Processes in Technology Assessment," in Technology Analysis & Strategic Management, vol. 3, no. 4, 1991.

27.この文脈でAIDS問題についてより立ち入った考察としては、Andrew Feenberg, "On Being a Human Subject: Interest and Obligation in the Experimental Treatment of Incurable Disease," The Philosophical Forum, vol. xxiii, no. 3, Spring 1992. 参照。

28. "Only a God Can Save Us Now," Martin Heidegger interviewed in Der Spiegel, translated by D. Schendler, Graduate Philosophy Journal, vol. 6, no. 1, Winter 1977.


Shiso (No.926 2001.7)
Originally Andrew Feenberg "Subversive Rationalization: Technology, Power and Democracy", Inquiry 1992, Vol. 35, pp.301-321. Reprinted with Permission of Tayloy & Francis, Oslo, Norway.